この8月9日(土)に僕の住む所沢市松葉町の夏祭り「こども縁日」が開催された。僕は柄にもなく、松葉町町会の防犯部に所属しているために年に何回かの町の行事には必ず動員される。ところがこの縁日の開始直前に、どたばたが起こった。縁日の会場は駅前通りにあるM銀行の駐車場で行われるはずであったが、開催直前に駐車場を管理している業者から「事前に会場代が振り込まれていないので、キャンセルする」との連絡が縁日開催の責任者Nさんに入った。ひどい話で、何年もこの駐車場で夏祭りや冬の餅つき大会などを行ってきた。M銀行も管理を任せている業者にはなすすべもなく、お祭りの役員は頭をかかえてしまった。困ったあげく、町会の役員の女性が「町は違うけど、私が卒園した“新所沢幼稚園”に交渉してあげる」と動いてくれ、なんとその幼稚園の園長先生、理事長先生が一諾してくれた。その結果、松葉町にはその園の卒園生が多くいるせいか、用意していた食べ物や景品などが足りなくなるほどの大盛況であった。
実はこの松葉町、1965年ころから西武関係の不動産屋によって開発された町である。西武新宿線新所沢駅前から東北方向に約400m、東南方向にも約400mの少しゆがんだ五角形の小さな町だが古い開発地のせいか、周りの町には必ずある公園が無い。したがってお祭りなどは、銀行の駐車場を利用するしかしかたがなかった。新所沢幼稚園はまさに救いの“神”である。
新所沢駅、この駅はかつて「所沢飛行場前駅」と称していた。今の駅より約2kmほど所沢駅寄りにあり、戦前の陸軍所沢飛行場への入り口の駅であった。陸軍所沢飛行場は戦後アメリカ軍に摂取され米軍所沢基地となり駅は今の場所に移動し「北所沢駅」と改称されその後、今の駅名に再度改称された。駅周辺の明治初期の国土地理院の地図をながめてみると、駅周辺は“松”、楢(雑木)、麥(むぎ)、茶、畑、などの字が記してあり、家は一軒もない。そして旧鎌倉街道上道(かみつみち)の堀兼(ほりかね)道が僕の家のほぼ真下を通っていた。
1971年に米軍所沢基地の約6割が返還された。今でも駅から東方約1kmの場所に「在日米軍所沢通信基地」が松葉町の約5倍もの面積で存在している。近くを車で通ると、実に奇妙な場所である。金網フェンス越しの地上には建物がなく、大きなアンテナが数本ところどころにたち、地上は草地である。ほとんどの機能が地下に潜っている。三富新田で有名な下富の農家のYさん曰く「江戸期以前の武蔵野の姿(秣場・まぐさば)のようだ」と。
所沢市は武蔵野台地上にある。南西には狭山丘陵(東西約11km、南北約4km、最高地点194m)、別名“緑の島”があり、丘陵上には村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)がある。約25万年前から20万年前には多摩川は狭山丘陵の北側を流れていた。その後、南流し現在の多摩川になるが、丘陵は流れに削られずに残った。武蔵野台地は現在の青梅市付近(標高約180m)から流れ出る多摩川の扇状地であり、その上に富士山などの火山灰が堆積し、関東ローム層が形成された。この台地は水利が悪く、一部を除いて田の開墾は難しく、江戸期の新田開発もほとんどが畑であった。江戸期以前には焼き畑も行われていたという。小手指(サシ)や指(サシ)扇などの地名に残るサシやサスは焼き畑の古語だといわれているし、古朝鮮語との説もある。
武蔵野台地は地盤が安定しており、地震に強いとされている。所沢の松葉町は標高70mほどで、付近の河川も少し低い場所を流れているためほとんど水害の心配もない。都心より少し安全な場所に住んでいる気分がなんとなくくすぐったい。家から15分ほど歩くとお茶畑の中に入る。周りはほとんど平坦で関東山地がよく見える。北は奥武蔵の笠山、南は丹沢の大山まで見え、特に冬などは雪化粧をした富士山がきれいに見える。越したころ近所は畑ばかりで埃っぽいところだと感じたが、いやいやなかなかの棲み家だと思うこのごろである。

所沢市岩岡のお茶畑