ネパールのこと

この9月にネパールで大規模な抗議デモが起きた。このデモでの死者は9月15日現在で72名、負傷者は2000名以上にも達した。

僕が初めてネパールを訪れたのは、1979年の年末であった。山と渓谷社の50周年記念のS旅行社主催トレッキングツアーのガイドとしてである。山仲間の親しい友人がその旅行社に勤めており、ネパールは初めてなのだがヨーロッパアルプスでの高所経験を見込まれ、アンナプルナベースキャンプ(通称ABC)までのガイドを頼まれた。当時はポカラからこのトレッキングが始まった。このころのカトマンズ市内は歩いているだけで、貧しい物乞いの人たちや子供たちが「バクシーシ(お恵みを)、バクシーシパイサ」などとずっとつきまとってくる。カトマンズだけではない、ポカラでもトレキング中でもまとわりついてきた。大勢に囲まれるとさすがに恐怖を感じ、知らん顔をして離れるまで待つか、車に乗るかお店に入るまで我慢をするか、根競べである。この体験のおかげで子供のころの怖い思い出がよみがえってきた。小学校4年生の夏、祖母に連れられて叔父の転勤先の仙台に夜汽車で向かうとき、上野駅に通じる地下道を歩いた。数多くの物乞いの人たちがその地下道の壁際にすわり、傷痍軍人たちと混じりながら施しを待っていた。物乞いの人たちは「お恵みを、」とつぶやき、膝の前にはお金をほうりこむどんぶりや缶が置いてある。とても怖くて祖母の袂をぎゅっとにぎって歩いたのを記憶している。

このネパールの暴動はZ世代の若者が主導しているという。9月11日の朝日新聞には「高級時計を身につけたネパール人政治家と、欧州を観光するその子らの写真に、『これが私たちの税金だ』などのコメントを載せた動画が、TikTokに相次ぎ投稿された。富の独占への怒りが若い世代に共有され、デモにつながった。…」との記事を載せている。ネパールは1996年から10年以上にわたるネパール共産党毛沢東主義派(通称マオイスト、略称MC)たちの武装闘争をへて共和制に移行した。移行した後も、政府や党派によってさまざまな富や権力が偏在したのである。ネパールは初めて訪れた時より、はるかに豊かになっている。最近は2018年に訪れた。このネパールへの旅は、1983年エベレストを登頂後に旅立った岳友の夫人と父親を見ずに生まれたその娘さんとの道行きである。カトマンズ市内は賑やかにになり、物価も高くそして物乞いの人々はほとんど見かけることはなかった。今はさらに豊かに、また平穏になっているはずだと思っていたが、想像を絶する大規模なデモが起きたのだ。どうも富の偏在だけが問題ではないように感じている。今でもネパールの人々の間ではカーストが、根っこに存在し、地域間の酷い格差なども原因のひとつであるだろう。1981年のアンナプルナ遠征のとき、登山の手配をしてくれたランジャン(インド人・バラモン)さんには彼専用のコックさんがいて、彼の食事のためにタマネギを終日炒めていた。それだけが彼の仕事であった。ランジャンさんにヒンズー教を少し勉強したいと伝えたら、彼は「やめたほうがいいでしょう、ヒンズーの神々とカーストも含めて煩雑すぎるので、」と言われた。

共和制以降、ネパールはネパール会議派、ネパール共産党、共産党毛沢東派を中心に権力闘争が続き、同じ顔ぶれの政治家が何度も要職を務めてきた(朝日新聞より)という。ようするに権力のたらい回しである。経済成長により生活水準はある程度向上したが、コネがなければ良い仕事につけず、多くの若者が外国に出稼ぎに出かけている。未だにある地域間の格差や教育の格差、貧困、隠れているカースト、権力のたらい回しなどで、多くのやさしい人々が政治や経済の恩恵から排除されている。

MCの初代書記長のプラチャンダ(本名:プシュパ・カマル・ダハル)は、ポカラ近郊の貧しい小作人の子供として生まれたが、カーストはバフン(バラモン)で高い。トリブバン大学を出た知識人でもある。農村ゲリラから政治の表舞台に登場した彼は、数年後になんらかの富を得た。風の旅行社の手配でリピーターのネパールツアーを企画し催行してきたM子さんが、その時期にネパールを訪れた際、現地の新聞を見て報告してくれたことがある。「水野さん、プラチャンダの写真が載っている新聞を見たら、彼の指に“大きな”宝石の指輪がはめられていたわよ、」と。

こういった現象ははたしてネパールだけなのだろうか、身近にもあるような気がしてならない。はたして解決への道があるのだろうか、ネパールの未来は、私たちの未来でもある。

旅人を歓迎するパトレ村の人々

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