風神雷神図屏風

“笑っている?あれ、この神さんたち、遊んでいるんじゃないか?嬉しそうだなあ。まるでいたずら小僧みたいだ。”
そう思わせるのは、金箔を一面に張った金地(きんじ)の背景に風神と雷神を配した俵屋宗達の《風神雷神図屏風》である。

一曲二双の《風神雷神図屏風》のうち、右隻(右の屏風)には雲に乗って風を操る風神が、雷神を笑いながら見ている姿が描かれる。左隻には太鼓を打ち鳴らす雷神がおり、その視線は斜め左へ落ちている。二神の間には大きな空白があり、これが広大な空間を生み出している。なお、一曲二双とは、一折で扇(せん)が二枚の屏風が対になって置かれたものをいい、一曲は二枚の扇で構成されるので、合計四枚の扇となる。

元来、屏風は風を防ぐために用いられ、雷から身を隠す際にも使われたという。にもかかわらず、その屏風に風神と雷神を描くとは、宗達はなんと大胆な逆転の発想の持ち主であろう。三十三間堂では、一千体の手観音を守る二十八部衆の中に風神と雷神が含まれ、堂の両端に立っている。先週の「ブラタモリ」にも三十三間堂の風神雷神が登場していたが、そこに描かれる二神は笑ってなどいない。むしろ厳しい表情をしている。

俵屋宗達は、京の扇屋・俵屋に養子として入った。扇絵とは、決まった元絵のいくつかのパターンを、どう配置するかという一種のデザインであり、決して創作絵ではなかった。十七世紀初頭、創作絵は狩野派に代表される絵師の仕事であり、街中の扇屋がそんな創作絵を描いても扇は売れない。人々が求めたのは、誰もが知る物語の場面や、定番の鶴などであった。いわば職人の世界である。その宗達が晩年、元絵のない創作絵ともいえる《風神雷神図屏風》を残したのである。ただし、この屏風には宗達の落款はない。それでもなお、宗達の作と疑う人はいない。

宗達を美の世界へ導いた人物が二人いる。本阿弥光悦と烏丸光広である。いずれも宗達の才能を見抜き、扇絵から絵巻・屏風絵へと宗達を押し上げた。この二人がいなければ、《風神雷神図屏風》も生まれなかったに違いない。

実は、今年五月、京都国立博物館で開かれた特別展「日本、美のるつぼ ― 異文化交流の軌跡 ―」で、俵屋宗達の《風神雷神図屏風》を観た。すぐ近くの三十三間堂でも風神雷神像を拝観した。さらに今回、柳広司著『風神雷神』(講談社文庫)を読んだが、無性にまた《風神雷神図屏風》を観たくなった。後に尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一らが、この宗達の《風神雷神図屏風》を模写している。彼らが「琳派」と称されるようになるのは、ずっと後のことである。

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