萩の吉田松陰

萩の人は、皆、萩を自慢する。しかも、必ず吉田松陰の名が出てくる。松陰への尊敬を率直に言葉にし、松陰を自分たちの誉れとしている。松陰は、身分の貴賤を歯牙にもかけず、どんな人にも平等に接した。自らも“身分の低い武士”ではあったが、そのことで自分を卑下したり、他者に遠慮したりすることもなかった。しかも、正論を吐くだけではない。「実践してこそ意味がある」と説き、救国の志から黒船での密航を試みたが失敗し、最期は小伝馬町牢屋敷の処刑場で打ち首となってしまう。

松陰にとっては、恥なく生きることこそが第一義であった。獄につながれることは罪ではあるが恥ではない。しかし、国を思う志がありながら行動に移さないのは恥である。幕府を正さないのも恥である。恥をさらしては生きられない。松陰は、まさにその信念どおりに生きた。自らの死をも恐れないその高潔さに、人は心を打たれ、感動し、心の底から敬意を抱く。今回、松陰の著作をあれこれ読み、知れば知るほど、ただ嘆息するほかない。

松陰の著述は、思想書・記録書、講義録、旅行記・紀行文、書簡など多岐にわたる。その中でも、小伝馬町の獄中で記した松下村塾の塾生宛ての遺書『留魂録』は最も有名だろう。冒頭の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の歌をご存じの方も多いはずだ。今回の萩の旅でも、松陰神社、明倫学舎、萩博物館などで全文が展示されているのを見かけた。

思想書の中では『幽囚録』の見識の広さに驚かされる。世界の中で幕末の日本が置かれた状況を分析し、国防の必要性を説き、その具体的な方策にまで踏み込んで幕府に意見した。特に、日々刻々と変わるこのような情報を、松陰は一体どのように入手したのか。その情報を基に、俯瞰的でありながら個別の事象にも配慮した意見書を、よくもこれほど書けたものだと感心する。

また、野山獄で囚人相手に行った講義をまとめた『講孟余話』(PHP研究所)は、松陰の思想を知るには必読の書である。野山獄を出た後、松下村塾で教えるようになった松陰は、この書を教典として用い、後の明治維新における尊王攘夷運動へとつながる礎ともなった。

『講孟余話』には「国体」について記した章がある。松陰は江戸で学んでいたころ、東北遊学に出て、1852年2月に水戸に立ち寄っている。以前に会沢正志斎の『新論』を読み、水戸学に触れたいとの思いがあったためである。この頃から松陰の尊王攘夷思想は苛烈になっていったといわれるが、私は今回『講孟余話』を読み、初めて松陰の思想に触れたように思う。とてもこの稿では書ききれないが、以下、印象的な内容だけ私なりにまとめてみた。

日本の国体は他国に類を見ず、神武天皇以来の「万世一系」の皇室が国を治めてきた。だから日本は世界でも特別な国であり、皇国であることは未来永劫変わらない。人民(武士から庶民まですべての民)は「一君」(天皇)の臣民であり、一体である。国内が一つにまとまり天皇を戴き、外患に立ち向かうべきだ――とした。

戦前と戦後とでは、松陰の評価は全く異なる。それについては、皆さんお一人おひとりのお考えに委ねたい。ただ、松陰の著作に触れると、その直截で純粋な人間像が浮かび上がってくる。真摯に国を憂い、命を賭して国を救おうとしていたことだけは、疑いようがない。

先日、『獄(ひとや)に咲く花』という映画を観た。『吉田松陰の恋』という改題もあるようだが、映画としての解釈は、それはそれでよい。共に黒船密航を図った金子重之助が、庶民を収監する岩倉獄に投じられ、病で命を落とす。その重之助の名を、松陰が岩倉獄に向けて叫ぶ姿が、映画の脚色かもしれないが、私の目に焼き付いた。

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