燃料電池と石油メジャー

つむじかぜ519号より


電力会社で発電した電気は、発電と同時に光と同じ速さで私たちの元に届き消費される。余分に発電しても、貯めておけないので無駄になってしまう。もし、電気が貯められたら、発電所はこんなに沢山は要らないだろう。

もちろん、電気をまったく貯められないわけではない。リチウムイオン電池などの充電式電池(バッテリー)に貯めておく方法がある。モンゴルにある弊社のゲルキャンプ「ほしのいえ」では、風力発電をしてそれをバッテリーに貯めて使っていた。

「ほしのいえ」で使う電気量は、蛍光灯と冷蔵庫ぐらいで極々わずかである。それでも、棚一杯のバッテリーが必要だった。いくらバッテリーをたくさん用意したとしても、到底、全世界で必要とされる電気量を賄うことなどできない。その蓄電量は、余りにも微々たるものである。揚水発電という方法もあるが、これまた、その“蓄電効果”は薄い。

私は、「今にきっと大量に蓄電できるバッテリーができるに違いない」と思っていた。否、期待していたのだが、中々そんなものは出てこない。ところが、ここにきて、水素で電気を貯めることができると言われ出した。

太陽光発電、風力発電、といった再生可能エネルギーは、天候状態で発電が左右される。常に一定の電力を提供できるようにするには、水素にして発電した電気を蓄えればよい。水素を作る方法は、水と電気、ガスと熱、ガスの精製など、複数の方法があり、気体、液体、固体などの形態で貯蔵が可能だという。

1972年に出版された『成長の限界—ローマ・クラブ人類の危機レポート』(ドネラ・H・メドウズ著、ダイヤモンド社)は、同時代の人々が殆ど考えていなかった成長の限界を正面から捉え、持続可能な社会の実現にむけて人間が選択することの重要性を説いた。

水素社会の到来は、もうエネルギーの枯渇という心配もないし環境汚染の心配もなくなるから無限の成長を可能にする。「成長の限界などないと」と捉える方もいらっしゃるかもしれない。しかし、エネルギーの問題だけが成長の限界の要因ではない。むしろ、人間と地球との共存の可能性が、水素社会の到来によって出てきたと捉えたい。

10年ほど前に、マツダ自動車の工場見学をした折に、水素自動車が研究されている様子が展示されていた。水素は扱いが難しくなかなか実用化されなかったようだが、2014年末、ついにトヨタから水素を燃料とした燃料電池車「MIRAI」が発売された。

それにしても、車が水素で走りガソリンを使わないですむ社会が、本当に来るのだろうか。そんなことになったら、産油国はどうするのか。石油メジャーたちが黙っているだろうか。いやな予感がする。

★弊社代表取締役原優二の「風の向くまま、気の向くまま」は弊社メールマガジン「つむじかぜ」にて好評連載中です。

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