イムジン河

音楽は好きだったから、高校生のころは、先輩から使い古しのフォークギターをもらい、コードだけ覚えて歌集をみては歌っていた。人前で弾けるほど上手くはなかったから、弾くのはもっぱら自分の部屋だけだった。「イムジン河」もそのころ覚えた。“放送禁止歌” という奇異な魅力をもった歌だった。もちろん、歌詞も曲も好きだったから覚えているのだが、放送禁止になった理由は正確には調べたことはなかった。

先日、偶然、「NHKBSプレミアム アナザーストーリーズ 運命の分岐点『時代に翻弄された歌 イムジン河』」を観ることができた。この番組で、朝鮮総連から抗議を受けて、レコード会社が1968年2月に発売直前で発売を中止にしたということを初めて知った。

日本語詞は松山猛が創った。何時も対立し喧嘩ばかりしていた朝鮮学校に、先生に頼まれてサッカーの交流試合を申し込みに行った松山猛(当時中学2年生)は、その朝鮮学校で「イムジン河」を耳にしたのだ。この曲に感銘を受けた彼は、作者不詳の朝鮮民謡と思い込んで日本語の歌詞をつけ、手に入れた楽譜に2番以降がなかったので2番も付け足した。

ザ・フォーク・クルセダーズの影のメンバーとして作詞などをしていた松山猛は、「イムジン河」をザ・フォーク・クルセダーズに歌うことを提案した。レコードになる前にライブで歌ったところ、学生運動盛んなりし頃だったので、あっという間に学生の間に広まった。私が覚えたのは1972年ころだから、そのころから歌い継がれていたのだと思う。

ところが、北朝鮮の民謡ではなく著名な作曲家の作品で、2番以降も歌詞があったのだ。しかも、2番は「南朝鮮より北朝鮮の土地の方が素晴らしい」という政治的なプロパガンダを含んでおり、朝鮮総連は、その2番を訳して歌うことも要求してきたので、レコード会社が万歳したというわけだ。その後、「イムジン河」は放送にも掛からなくなり封印されていく。

ソウルオリンピックの前年の1987年、京都の朝鮮学校で「イムジン河」を生徒に歌い継がせていた音楽教師のカン・イルスンは、京都交響楽団を引率して平壌でコンサートを開き、アンコール曲に「イムジン河」を演奏した。もちろん歌はなし。しかし、「何この曲?」といった様子で反応はなかった。北朝鮮では忘れ去られた歌だったのだ。ところが6日後、東海岸の港町の元山(ウォンサン)で同じように演奏したら、会場を埋め尽くした人々がみな立って泣き出したそうだ。元山は万景峰号の母港で、会場に来ていた人達は、日本から楽園を夢見て北朝鮮に渡った在日の方々。日本で「イムジン河」を聴いていたのだ。

あらゆる分断は、例外なく、多くの人々に多大な悲しみをもたらす。その悲しみを今に伝え、忘却の淵から救い出す。歌には、すごい力があるものだ。ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦は発売禁止になったその悲しみをたった3時間で歌にした。結果、25万枚以上の大ヒットになった。それが「悲しくてやりきれない」である。

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