歎異抄を読む

歎異抄(たんにしょう)を読み始めたが中々手ごわい。字面を追うだけではさっぱり解らない。ならば解説書と思い『歴史の中にみる親鸞』(平雅行著 法蔵館文庫)を読み始めた。表題からして入門書的なものかと思ったら、親鸞の2人の叔父たちが貴族の世界で如何に苦労して生きたかとか、法然、親鸞らへの迫害、さらには、親鸞の思想構造についてかなり詳しく書かれている。小気味いいくらい言い切りの書き方には著者の学問への自信を感じる。まれにみる良書である。

中でも1207年(建永二年、承元元年)の「建永の法難」については仔細に及んでいる。後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた。死罪という当時でも異例な厳しい刑罰の要因は、法然の弟子が後鳥羽上皇の留守中に「密通」(女官たちの発心?)したことを後鳥羽上皇の逆鱗に触れたということだが、著者は、公式の手続きを取らない後鳥羽上皇の私刑ではなかったかという説に賛意を示している。

そもそもこの「建永の法難」以前から、延暦寺は元久元年(1204年)10月に「延暦寺奏状」で、翌年9月には興福寺は「興福寺奏状」で、専修念仏の停止を天台宗座主に訴えている。その結果、朝廷は、「専修」、「念仏宗」という言葉を使うことを禁止した。朝廷は、法然に一部の急進派を抑えさせれば解決できると思っていたが、顕密仏教(南都六宗と天台宗、真言宗の旧仏教)側からは、法然や親鸞の思想そのものに偏執、つまり一部の急進派の問題ではなく法然、親鸞の思想自体に問題があるとされた。

確かに、他力本願、悪人正機、専修念仏、そのどれもが顕密仏教を否定する内容だ。自力の修行を否定し他力でしか救われない。悪人こそが救われる。苦行は不要。念仏をただただ唱えよ。これでは、顕密仏教を全否定するようなものだ。

もちろん、私ごときが法然、親鸞の思想を説明できるはずもない。しかし、奈良、平安仏教が、朝廷の庇護のもと国家鎮護を目的とし、武士や庶民への救済に見向きもしなかったことへの反動なのかもしれない。仏教は一部の者のためにあるのではなく衆生のためにあるという思想には賛同したい。しかし、だからといって厳しい修行をして悟りを開こうという僧たちの生き方を否定するのにも疑問を感じる。

禅の心得を説いた『天台宗小止観』(岩波文庫 関口真大訳註)という本がある。止とは「思考力を正しくはたらかせること」観とは「感情を波立たせないこと」とだそうだ。私などは、感情を波立ってばかりである。少し座禅でも組んだ方がよさそうだ。ひたすら南無阿弥陀仏を唱えることの方が私には難しいと感じる。

弊社では縁shop5で「アレッポの石鹸」を販売している。今回の2回にわたるトルコの大地震でシリアのトルコ国境の近くの町にも大きな被害が出ている。アレッポは、そのまさに国境近くの町だ。販売元の(株)アレッポの石鹸に確認したところ、工場は大きな被害はなく生産は続けられるが、スタッフの住居にかなり被害が出ているとのことだ。すでに被災者救助の段階から支援に代わっているが、お手伝いできることがあれば協力する旨を伝えた。その際は、皆様にもお願いすることになりますが何卒よろしくお願いいたします。

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