一市民の良心

私の生家は祖父の代から餅と饅頭を製造販売し生計を立ててきた。小さなころから、祖父母、両親が働く姿を毎日見てきたが、考えてみたら「何のために働いているのか?」などと聞いたことはい。聞いたらなんと答えただろうか。

「家族が食べるため、生活していくため、お前を大学に行かせるため」などと答えたような気がする。お袋は、「なんでかなあ? そんなのなんでもいいんな。働かなきゃご飯食べれんに」と困った顔で答えたかもしれない。間違っても「餅・饅頭で人々を笑顔にし、平和な社会をつくる」などとは言わなかったと思う。ただ、「美味しいと言われたら嬉しいから」くらいは言ったかもしれない。

街の飲食店の店主などが「お客さんに美味しかったと言ってもらえたら最高ですね。その一言のために頑張っています」と答える姿がテレビに映るが、それは、ミッションだとかパーパスなどという大袈裟なものではなく、“善良なる一市民の良心”から生まれた自然なものだと私は思う。

親父は、一手間増えるほうが美味しいといって焼いたみたらし団子を店に出していた。台所でつくるタレだけはお袋しかできない自慢の仕事だった。冷めて時間がたつと固くなるのが難点だが、焼きたての団子にこのタレをたっぷり付けて食べれば最高である。私の大好物だ。

私が小学生の頃に、さくら餅やかしわ餅を包む葉が、プラスチックになったことがある。さくら餅は葉っぱごと食べるからあの風味を楽しめる。かしわ餅は葉こそ食べないが葉っぱから独特の香りが餅に移って美味い。当時は、自然のものは古臭くプラスチックが新しくていいものだ、という高度経済成長期の妙な雰囲気があった。親父は、しばらくしてプラスチックの葉を使うのを止めて元に戻した。

両親は、高邁な理屈は言えなかったが、黙々とまじめに餅・饅頭を作り私たちを育ててくれた。“商売は信用が第一。悪い評判はあっという間に広まる。一旦広まったら取り返すには何倍もの時間がかかる。怖いに!”これが親父の口癖だった。

自分がしている仕事に疑問を持ちながら言い訳して誤魔化す。挙句の果てに“値段が安いのだから質が落ちても仕方ない”と開き直る。こんな仕事をしていれば楽しいはずがない。納得も行かない。誇りなど生まれるはずもない。

私は、社是など掲げたことはないが、“善良なる一市民の良心”に従って仕事をしてこられたように思う。これも両親と、応援してくださるお客様のお陰だと感謝している。コロナ過の出口に立ち、仕事ができるありがたさを噛みしめながら心底そう思う。

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