第15話 [番外編]ラダックのバカ殿とバカ・ラマ[LADAKH]

ホームページのコラムにてラダックの高僧や偉大な王たちについて紹介したきたが、今回はおバカさんブームにちなんで(ちなまなくてもいいのだが)ラダック史上のおバカさん二人を紹介しよう。

バカ殿ツェワン・ナムギャル王

18世紀後半、ラダックでツェワン・ナムギャルという名の王が即位した。
この王のおかげでラダック王家は傾いてしまう。どこの国でも王朝が退廃するときには同じような現象が見られるものだ。
レーの王宮
<写真:レーの王宮>

ツェワン・ナムギャル王の没落は、低いカーストの女性との恋によって始まった。王は、愛人のため正妃を離婚した。そして、女にかどわかされ国家財政を疲弊させてしまった。さらに、無実の大臣に嫌疑をかけて殺したことで、臣下たちが離れていった。結局、この愛人は殺された。

しかし、王のご乱心はさらに続く。愛人亡き後、新たにイスラム教の土地プリク地方からイスラム教徒の妃を迎えた。ジャムヤン・ナムギャル王のお妃ギャル・カトーゥンもイスラム教徒であったが、ジャムヤン・ナムギャル王は、イスラム教に改宗することなく仏教を篤く保護した。一方、このツェワン・ナムギャル王は、イスラム教徒に改宗してしまい、さらにあろうことか、国教であった仏教行事をレーにおいて三年間も中止することにした。
プリク地区のモスク
<写真:プリク地区のモスク>

また馬にハマってしまい、良馬をもとめて散財してしまった。悪いことは重なるもので臣下に国家財政を横領される事件も起こった。自ら招いた失政のために起こった財政難を解決するために、1781年、イスラム貨幣を鋳造したが、翌年、とうとう臣下に見放されてしまい、退位を余儀なくされた。この王の末路は分らない。

ティクセ寺のバカ・ラマ

20世紀初頭、ドイツ人キリスト教伝道師たちがラダックに滞在していた。そんなキリスト教徒が書いた『ヒマラヤの小チベット』(A・リーブ・ヒーバー/著 未来社)という本の中で当時のラダック社会の様子を紹介している。

この本の第22章「僧院長とスキャンダル」には、バカ殿ならぬ、バカ・ラマが紹介されている。王のご乱心はどんな国でも存在したが、活仏あるいは転生ラマのご乱心はチベット文化圏だけであろう。実際は、問題のあるラマたちが多数存在したはずであるが、お家の恥、いやお寺の恥としてあえて記録に残さなかったであろう。しかし、このキリスト教徒であるこの本の著者にとっては、仏教徒の恥部を隠す必要などない。次に紹介するケースは、ある意味貴重な資料かもしれない。

問題のラマが現れたのは、ラダックの観光名所の一つであるティクセ寺、ゲルク派の名刹でもある。
1914年、先代のティクセ僧院長であるラマの生まれ変わりとして、白羽の矢が立ったのは、チベットにいた19歳の青年であった。本人はラダックへ行くことを拒否し、父親は交渉にあたったラマたちに、後悔するだけだから連れて行かないようにと強く勧めたそうだ。「手に負えない若者で宗教の勉強など全くせず、話によれば、すでに中国に味方して自分の国に反抗していたという。しかしラマたちは固執してラダックに連れて行き、ティクセで就任させた」。
ティクセ寺
<写真:ティクセ寺>

この後、ティクセ寺の僧侶たちは、父親の忠告を無視したことに後悔することになる。ティクセ寺に連れてこられた若い転生ラマは、レーの宣教師の元へやってきた。
このときの様子。
「僧院長は定刻に正式の僧衣を着て二、三人のラマに付き添われて到着すると、応接室に案内された。ところが玄関でぐずぐずして着物を脱ぎ始めたので、ドクターはびっくりした。それがいつまでも続いて心配になってきたので、書斎に通した。
(略)
応接間のドアが開くと僧院長が入ってきたので、三人ともびっくり仰天した。彼はヘルメットに、背中を二か所ピンで上げをした中国風のフロックコート、茶色のズボンと目のさめるような黄色っぽい靴下、それにヨーロッパ風に見せかけた中国靴をはいていた」。
コスプレ・マニアであったのだろうか?西洋がよっぽど好きだったのであろう。

このときラマは、初対面にもかかわらず突然、キリスト教徒になりたいと言ったそうだ。そして宣教師のところにいたドイツ人医師が、「この国ではタバコが規律違反であることを知らずにタバコをすすめた。僧院長は医師に大げさな合図をして再び書斎に引っ込むと、(お付きの)ラマたちの目を離れてタバコを思い切り吸った」。
不良高校生か!とツッコミを入れたくなる。チベット人は、いまでこそ中国人の影響でタバコを吸う人が多いが、チベット難民やヒマラヤに住むチベット系住民たちは宗教上の理由でタバコを吸わない。

その後、不良ラマは、さまざまな問題を起こした。その乱暴狼藉は、「彼は公然と自分の聖務や宗教を信じないと言明した。彼が通るとき一般大衆がひざまずくと、頭に手を当てて祝福する代わりに横面をなぐった。僧院の神聖な財産に敬意を払わないだけでなく、多くの財宝を競買人に売り払ったり、尊像を持ち出して一列に並べて射撃練習の標的にした。へミスの僧院長が彼に手紙を送ったところ、これに対する唯一の返事として、その下にロバの絵を描いてつき返した」とある。チベットを解放(侵略)した中国人民解放軍なみの行為である。これでは、単なる反抗ではなく、精神に異常をきたしているとしかいいようがない。
ティクセ寺の弥勒像
<写真:ティクセ寺の弥勒像>

「ある日事態は危機を迎えた。ラマたちが彼をひどくたたいて個室に監禁したのである。しかし何はともあれ、彼は僧院長だから、あるラマがふびんに思って解放してやったらしい。
(略)
僧院のもめごとは裁判問題になって、ラマのうち何人かはレーの監獄に送られたが、それでもラマたちとその神聖な頭領との関係はほとんど改善されなかった。もはや彼がティクセに帰ることは実際的でなかったが、依然として僧院長であることに変わりはないし、その職務上の恩典を受ける権利があったから、彼をどう処置するかが問題になった」。

そうこうした挙句、ラマは1916年にインドへ送られた。世間のうわさも途絶えたころ、「1920年の初めに彼はラマの従者を一人連れてラダックに現われて、インドでの珍しい経験を語った。インドの一般兵としてバルティスタン(※)に勤務し、何らかの資格でバスラまで行ったり、アルコール癖のあるイギリス士官の従兵になったりしたというが、マドラス近辺では陸軍大佐の旦那とも親しくなって、この人が自分を息子のようにかわいがってくれたという」。(※原文はバルチスタン)
どうやら更生したらしい。

「人は彼を気狂い僧院長と呼んだが、彼は『私は気狂いではない、全くラマを信じないのだ』と言った」。この言い訳が本当なら、以前の悪行は、やはりわがままな青年の当てつけ行為だったのであろうか?

イスラム教徒は、布教に熱心で「レーのイスラム教徒は金を積んで、しきりにイスラム教徒になることをすすめた」らしい。しかし、ラマは西洋かぶれであったらしく「自分の気に入った宗教はキリスト教しかないと明言して、キリスト教を信じると誓ったので仏教徒はびっくり仰天した。彼はモラピア教団の宣教師のところに来て、信徒にしてくれと頼んだ。難しい状況で、とくにすさんだ自堕落な生活をしてきたあとだけに、どこまで本気か確かめる必要があったが、結局、教団側はまず学習と見習期間が必要だと告げて教育を始めた。彼は規則正しく通ってきて、宣教師の一人が勉強の相手をしたが、まことに面白い物わかりのよい生徒で」あったそうだ。
レーのモスク
<写真:レーのモスク>

ラダック人からは、不評をかったラマであったが、ドイツ人の著者にとって「彼は愉快な友達であり、紳士的な客だった。引き続き規則正しく教育を受け、礼拝式に出席して、他の信者と一緒に床に座り、見るからに誠実に愉快に、応唱と賛美歌に加わった」との印象が記されていた。実際は、根はイイ奴だったのかも。でもお友達にはなりたくない。

ラマのその後は、このように記されている。
「結局、イギリスのジョイント・コミッショナーを通じて、ダージリン方面のチベット国境を越えたギャンツェの秘密機関に職を与えられ、証明書と推せん状を持ってレーを発ったが、二年経ったらキリスト教教育を仕上げるために帰ってくると誓った」。

「こうして、この変わった若者は私たちの中から姿を消した。その後聞くところによれば、彼は藩王の許可を得てティクセ僧院から、帰路の費用として五百ルピー入手したという。ラマたちはいまでも彼を僧院長と思っているかどうかについて一言も言わないが、僧院ではいまでも彼のことを『気狂い僧院長』と呼んでいて、彼が生きている限り後継者を任命することはできない。ラサから帰ってきてレー近くの親類を訪ねたラマから聞いた最近の情報によれば、彼はまだ生きていて、最初代表者たちが彼をチベットから連れて行くとき、父親に先見の明があったために父子とも無事にすんだのだという。父親は息子の異常な性格を知っていたので、予防策として、ティクセのラマたちが自分と息子双方の意志に反して、どうしても連れて行くと言ってきかなかったという文書を書いておいたのだ。この文書が結局二人の生命を救ったが、父親はその後政府の高い地位を追われて低い地位に格下げされたし、息子の方は鎖国チベットの、ラサではない、どこかの埋葬場に家と畑を与えられて、他の背教者と一緒に隔離されているという。そこではティクセのラマを困らせたほどの無茶をする力はないようだ」。

破天荒で波乱万丈な人生を送った転生ラマの物語。もし、現在のティクセのラマに会う機会があれば思い出してほしい。(といっても、ティクセのラマにとっては、こんなこと思い出してほしくないであろう・・・・・)
ティクセ寺の小坊主
<写真:ティクセ寺の小坊主(本文とは関係ありません)>