第79回●メンドゥブ  ~途方もなく続く祈り~

小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

tibet_ogawa079_2メンドゥブの様子
メンドゥブとは「メン(薬)ドゥブ(成就)」の意

お釈迦さま、仏法、僧侶に
菩提心を得るそのときまで、私は帰依いたします。
布施などの功徳を積むことを通して
生きとし生ける者を導くために、彼岸の境地に達することができますように。

朝7時、メンツィカンの1日はこの読経で始まる。そんな読経中、ふと後ろを振り向いたとき、女生徒、ユンドゥンの祈る姿に心を奪われてしまった。小さいころから祈り続けているからこそ醸し出される神々しい美しさ。何故なのか、特にあの娘の祈る姿はいつも光り輝いていた。彼女に代表されるようにチベット人とはまさに祈りの民族。こうした毎日の祈りによって薬に御加持が込められ、患者を癒していくのである。

夜空に輝く月が半月を過ぎて少し丸みを帯びた月齢10日はツェチュと呼ばれ、チベット仏教の開祖グルリンポチェが奇跡を体現された日とされている。この日は薬の効力が一段と高まることからメンツィカン学生は朝9時から昼食をはさんで夕方の4時まで1日中、密教の法要『ユトク・ニンティク』を執り行うこととなる。太鼓、金剛鈴、シンバルを鳴らし、肉、酒も登場するあたりはなんとも密教らしい。しかし、1時間経過したあたりですでに疲れてしまうのはやはり外国人だからだろうか。1時間の読経は慣れているけれど、さすがに長時間となるとチベット人との差が歴然と出てしまう、と思っていたら、意外と同級生たちも辛いのか、やたらとトイレに行く回数が多くないか、ねえ、君たち。
最後には縁起よく白い米を撒いて終わるのだが、この段になって僕はようやく元気を取り戻し、前に座る人の頭めがけて、いや失礼、空に向けて思い切り撒いたものだった。こうして1カ月ごとにメンツィカンで製造される薬すべてに御加持が込められ患者を癒していくのである。とはいえ元来、儀式嫌いなことから当時は複雑な心境で10日を迎えていたものだった。そしてそのおかげで自然と夜空を見上げつつ月齢を意識する習慣が身についたともいえる。

2010年9月2日、ダライラマ法王ティーチングツアーのガイドを務めるため、お客さんよりも4日早くダラムサラを訪れた。すると「オガワ、ちょうどいいタイミングで来たな。今日から4日間、メンドゥブが執り行われるぞ」とメンツィカンの同級生が教えてくれ、久しぶりに有難いような迷惑なような複雑な心境が甦ってきた。

tibet_ogawa079_1チベッタン・ホルンを奏でるお坊さん

ツェチュが月に1度ならば、メンドゥブはなんと6年に1度だけ執り行われる薬関係としては最も盛大な儀式。ダライラマ法王のお寺からお坊さんをお呼びし、4日間、昼夜を通して真言が唱え続けられる。そういえば6年前はメンツィカンを休学し日本に帰国している最中に行われ、夜中も生徒が当番制で真言を唱え続けていたという。その苦労話を耳にしたとき、たいへん罰あたりなことに「居なくて運が良かった」と思ったことを今ここで懺悔したい。そして“やり残した宿題は必ず降りかかってくる(第4話第78話参)”という人生の原則がまたしても適用されたのかもしれないなと観念しつつ、朝9時、メンツィカン職員、生徒と一緒に祈りの席に着かせていただいた。

tibet_ogawa079_3祭壇の生薬に繋がる五色紐

前方の祭壇には東西南北を意識しながら温性と寒性の生薬がそれぞれ捧げられている。そしてさすがお坊さんたちは専門家である。学生が行う法要とは荘厳な雰囲気のレベルが格段に違う。2本の大きなチベタン・ホルンが同時に鳴り響くと、お堂は打ちふるえ、何百年と変わることのない振動は確実に薬に変化を与えているに違いない。よく見ると一番、上座の高僧のお座席から五色の細い糸が祭壇につながっている。メンドゥブでは無線ではなく有線で、まるで科学者が電気を自在に扱うかのごとく、確実に祈りを生薬に届けているのである。なんと高度に発達した祈りの社会であることか。
 
チベット医学とは途方もない医学である。衆人環視の真っただ中で何時間も続く暗誦試験や(第51話参)、一カ月にも及ぶヒマラヤ薬草実習(第1話参)。そして途方もなく続く祈り。もしも、チベット医療を日本社会に取り入れるならば、この4日間に及ぶメンドゥブや毎月のツェチュの儀式、毎日のお祈りを外すわけにはいかない。それらが日本社会に根付くにはまだまだ途方もない年月を必要とするのではなかろうか。そんな“途方もなさ”を実感できるとき、チベット医学に対して謙虚さと信頼が自然と芽生えてくるのである。あらゆる物事が合理化されてしまった日本社会において“途方もなさ”を感じられることは少なくなってしまった。だからこそ、理論や薬や施術ではなく、まずは“途方もなさ”こそ日本に伝えるべきだと僕は考えている。
そのためには、暗誦や薬草実習同様に自分自身がひたすら祈るしかない・・・と頭ではわかっていても、4日間じっとしているのは辛いのとツアーの準備もしなくてはいけないので、ついつい何度も席を外してしまいました。風のお客さんが到着される直前にメンドゥブは終了し、一応、やり残した宿題を片付けたけれど、“よくできました”という花丸印しは、まだもらえそうにない。

小川さんによる講座情報
秋の薬草観察会と薬草茶講座

(日 程) 10月3日(日)、9日(土)、10日(日)
       薬草観察会 : 13時~14時半
       薬草茶講座 : 15時~16時半
(参加費) 1名~4名の場合、一人5,000円  5名~10名の場合、一人4,500円
       ハーブティーとケーキの軽食付き   (協力 麦草工房)
(場 所) 薬草観察フィールド:小諸・麦草工房周辺  薬草茶講座:小川アムチ薬房 または 麦草工房
<お問い合わせ・お申込み>受付は終了しました。


詳しくは 小川アムチ薬房 のサイトをご覧ください。