第91回●ドックパ ~疑いの中で~

小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

tibet_ogawa091_1卒業式で表彰される筆者

ダラムサラで学問に打ち込んだ10年間を総括すると「ドックパ(疑心)」という単語が浮かんでくる。
まず、メンツィカンの入学試験(第15話)に奇跡的に合格した時点において「外人が合格するなんてあり得ない。きっと裏のルートがあったに違いない」という疑いの声を耳にして、憤慨すると同時に「よーし、ならば入学後の定期試験でいい点数を取ってやる」と気合が入った。そして定期試験でいい成績を収めると「オガワに対してだけは先生が甘い採点をしているんじゃないか」と、またしても疑いの目が向けられてしまった。そこで寮や教室で積極的に医学問答を挑むことで信頼を得ようとした。すると今度は「オガワにはきっと優れた家庭教師がいて秘密特訓をしているに違いない」という噂が広がった。空き時間を見つけては大学を離れて日本食レストランなどに足を運ぶことから疑いの目で見られてしまったのだ。そんな噂話で盛り上がったときには、いつも親友のジグメ(第2話)が「オガワはそんな奴じゃない」と嫌われ役になってまで僕を擁護してくれていたと後から伝え聞いた。

1、2年生のころ、エアーベッドの寄付など(第90話)「いいこと事業」に精を出していたことが仇となり「オガワは寄付金を搾取している」というデマが立ったのにはさすがに参ってしまった。そもそも一生徒の分際で出過ぎたことをしていたことの報いである。また、当時は日本やロシアへのチベット薬の密売が問題になっていたこともあり「オガワも、結局、金儲けが目的なんだろ」という視線も感じていた。もちろん、偏見を持っている生徒や職員はごく一部かもしれないけれど、ちょっと耳に入るだけで過剰に反応してしまっていた。けっこう僕は繊細なのです。なにしろはじめての日本人学生なのでどんな噂が広がっても不思議ではない。ちなみに当時30歳代だったことと、あんまり女の噂が立たなかったことから「オガワは日本に嫁と子供がいる」という噂はジグメも含め、ほとんどの生徒が信じ込んでいた。

そんな周囲の疑心を払拭するためにも「見返してやる」と一層、勉強に力が入った。ヒマラヤ薬草実習でも積極的に働いてみんなにアピールした。朝夕の読経も同級生たちはたまに欠席できても僕は外国人だからこそ1日も欠席できず、しかも誰よりも大きな声を出すように心がけた。あえて人眼につくところでパフォーマンス的に自習に励むようにした。チベット人以上に質素な生活を心がけた。「僕を信じてよ!」そう心の中で叫んでいた。ところが必要以上に頑張ると余計に彼らの心に疑問符が生じてしまうのは皮肉なものである。「世界で一番快適な国の人間が、何の見返りもなく、わざわざメンツィカンで不便な生活を送るなんてあり得ない」と。でも、もしかしたら、そんな次から次へと湧いてくる周囲の疑心のおかげで僕に反骨心が芽生え、メンツィカン卒業だけにとどまらず、ギュースムという頂にまで到達することができたのかもしれないと思う時がある。なにしろダラムサラに渡る前の日本では、1,2年ごとに職を転々とするほど飽きっぽい人間だったのだから。

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忘れもしない2009年3月23日の卒業式では亡命政府の来賓、メンツィカン職員、在校生徒など約200人が講堂に集まった。そんな中、卒業生が一人一人、前に進み出て表彰を受けて行く。そして、いよいよ僕の順番になったときに、学籍番号を機械的に読み上げていたチュペル先生の声が止まった。先生はゆっくりと息を吸いこむ。
「みなさん、どうかご注目ください。一段と大きな拍手をお願いします。学籍番号236番。ギュースムを達成した日本人、オ・ガ・ワ!」
先生の粋な演出に照れながら、僕は前へ進み出てカタ(祝福の白い布)と賞状をいただいた。鳴り響く拍手の中、会場に向かって何度もお辞儀を繰り返す。こうして多くの人たちの惜しみない祝福を受けながら、この拍手が巻き起こす波動の分だけ、僕は真のアムチへと生まれ変わっていく確かな感触を噛みしめていた・・・と詩的に記すと格好がいいけれど、要はみんなに「どうだ、俺って凄いだろう」と胸を張り、そして、みんなから「ほんとうに凄いね。もう疑っていないよ」っていう100%の信頼が欲しかっただけなのだ。

あれからちょうど2年が経過した今、こうして振り返ってみると、よくもまあ、いろんな噂や中傷の中で生き抜いてきたものだと自分を褒めてあげたい。ところが日本で生活し、ハングリー精神が薄れてくるに従って学問への意欲も低下している自分に気づかされる。四部医典の暗誦能力も随分と落ちてしまったものだ。やはり自分には周囲からの疑心が必要なのかもしれないな。だから、厳しい目で僕を疑ってくれていた同級生たちには心から“ありがとう”と言いたい。でも・・・、もう「ドックパ(疑心)」は要らないよね(笑)。

補足  メンツィカンでは学生結婚は禁止されています。