第90回●ジンバ  ~いいことは難しい~

小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

巡礼堂にあるマニ車巡礼道にあるマニ車

銃を向けられホールドアップしたことが一度だけある。あれは、ダライラマ法王のお寺の巡礼道でお乞食さんたちに日本から送られた古着を寄付(チベット語でジンバ)して“いいこと”をしていたときのこと。配り方に配慮が足りなかったのだろう。あろうことか乞食同士で古着の取り合いが始まり大騒動にまで発展してしまったのだ。駆けつけたインド軍兵士に「なにやっているんだ。立ち去れ」と銃口を向けられた瞬間、本能的に両手は上にあがり、そのまま後ずさりしながら逃げ帰ったという苦い思い出がある。撃たれるとは思わなかったけれど、正直、かなり怖かった。

問題となったエアーベッド
問題となったエアーベッド

授業風景授業風景

2003年、ヒマラヤ薬草実習での生徒の負担を軽減するため、携帯エアーベッドを寄付しようと素晴らしく“いいこと”をまたしても僕は思いついた。これがあればヒマラヤ山中まで重たい布団をせっせと運ばなくて済むのである。そして日本のチベット支援団体の御協力もあり、2004年春、日本から船便でようやくダラムサラに届いた。しかし、ここで大きな問題が生じてしまう。メンツィカン経営本部は、大学で管理して薬草実習中だけ生徒に貸し出すと主張し、生徒側は、これは生徒一人一人へのプレゼントである、と主張して綱引きが始まってしまったのだ。最初から僕が態度をはっきりさせておけばよかったと後悔しても時すでに遅し。間に入った僕は板挟みの苦しみにあい、最後は当時の学長と大喧嘩した上で、生徒側に配られることに決定した。しかも、この大喧嘩が引き金になって数日後に大学休学を決意して日本に帰ることになったことを考えると(第60話)、なんとも後味の悪い“いいこと”になってしまった。

2003年春、日本の眼科医K先生からメンツィカンの生徒全員に3色ボールペン(赤黒青)が1本ずつ贈られた。製薬会社からの寄贈品を集めておいてくれた、いわゆる余剰品なのだが、これが予想以上に大好評を博した。インドにも同じペンはあるものの、書き味は悪いうえに大抵は途中でインクが切れてしまう。日本製品信仰も手伝って、生徒全員がこのペンを大事に使い、授業中は色を切り替える「カチッ、カチッ」という音が教室に忙しなく響き渡った。
翌年、ペンを使い切った生徒から「オガワ、お金を払うから同じペンを持ってきてくれないか」と懇願され、またK先生にお願いした。そして途絶えかかっていた「カチッ」の音が勢いを増し、古代教典は現代的な3色によって隙間なく書き込みされていった。
そして翌々年、メンツィカンの先生が退職しアメリカへ移住するにあたり、生徒一人一人に赤黒青のインド製のペンが、各色1本ずつ配られた。退職時に先生が生徒にプレゼントを渡すというのは耳にしたことがなかった。
同年10月、卒業試験を控えた上級生に、下級生一同からペンが贈られた。これもまた大学史上初めてのことだろう。さらに同年12月、卒業生の1人が下級生全員に高価なペンを贈った。ペンを贈るのはブームのような兆しさえ見受けられる。

日本ならば何気に見過ごされるこんな些細な出来事も、チベット人社会の中ではとても新鮮に映ってしまう。もちろんK先生の寄付と、その後の風潮に因果関係があるかないかは明らかではないけれど、僕たちができる最も効果的な援助は、お互いの記憶に残る派手な寄付ではなく、目立たないけれども無意識の領域にさざ波のように働きかける「3色ボールペン」ぐらいが丁度いいのかもしれない。

法王のパレスに向かって祈りを捧げるチベット人法王のパレスに向かって
祈りを捧げるチベット人

メンツィカンの教室の下の階に1人暮らしをしている名物婆さんアマ・イシェは病院の待合室に毎日やってきては誰彼となく話しかけて迷惑がられていた。チャン(チベット酒)作りの名人なのはいいのだが、授業中だろうが何だろうが醸造を始めてしまうので、教室は度々、お酒の匂いで充満したものだった。そんなアマ・イシェも2008年秋、いよいよ寝たきりになってしまい介護が必要な状況になってしまった。ところが、誰か介護人を雇おうにも、死期を悟ったアマ・イシェはなんと全財産をダライラマ法王のお寺に寄進してしまい、手元には一銭も残っていないという。結局は学生たちが代わる代わるボランティアでお世話をすることになったのだが、それも2週間ほど続いたある日、静かに息を引き取った。最後の最後に嫌われもののアマ・イシェが行った“いいこと”は、外国人の僕だけが特別に感心するだけで周囲のチベット人たちにとっては、別に気に留めるでもない、あたりまえの出来事だった。本当に“いいこと”は、きっと、あたりまえのように過ぎ去っていくものなのだろう。やっぱりチベット人って凄いな。