第146回●キャン・チャク ~五体投地~

ラサ・ジョカン寺の前での五体投地の風景

メンツィカンを卒業し、久しぶりにダラムサラを訪れたときのこと。チベット仏教を学ぶ日本人のS君が「これからお寺で五体投地をしますけれど、小川さんも一緒にどうですか」と誘ってくれた。恥ずかしながら、メンツィカンの儀礼として数回やることがあっただけで、僕はいまだかつて本格的に五体投地をやったことはない。同級生たちが毎日、メンツィカンのお堂で五体投地をするのを尻目に、天邪鬼な性格の僕はあえて無関心を装っていたのである(第50話)。なによりも「チベット人らしく振る舞う」という行為に妙なまでの恥ずかしさを感じていたのだが、今こうして振り返るとただの自意識過剰であろう。

チベット仏教には、数ヶ月かけて10万回の五体投地を行う修行がある。またチベット人は五体投地をしながら、尺取虫のように何ヶ月もかけてラサを目指したり、聖なるカイラス山を周って功徳を積んでいく。チベットの老人に腰が曲がった人が少ないのは、きっと五体投地の好影響ではないかと類推しているが、あくまで副次的な効果であって健康のために行うのは目的の順序が違うようだ。ちなみに五体投地というのは両腕、両足、頭の五体を地面に投げ出す姿から中国語、日本語で呼ばれている以外、本家のチベット語ではキャン(伸ばす)チャク(御手)、またはキャン・ツェル(礼拝)と呼ばれ、信仰の姿勢が明確に表現されている。

五体投地セット

ダライラマ法王のお寺に到着するとS君がさっそく「五体投地セット」を見つけてくれた。これまた恥ずかしながら、これらのセットは誰でも使えると13年目にして初めて知った。そしてダラムサラ滞在2年のS君に手取り足取り教えられながらたどたどしく五体投地をはじめた。まずは頭頂、口、胸の前で合掌して身口意を浄化する。そして地面に手を付き体ごと地面に投げ出す。このときしっかりと手を伸ばし合掌をするとともに仏様に帰依をする(人によっては正面に小さな仏像や仏画を据える)。そしてまた立ち上がる。と記すと簡単そうだが、意外と腹筋と背筋が疲れる。S君は慣れたもので、まるで体操選手のごとき美しいフォームとリズムで五体投地を繰り返していく。地元のおじいさんが、僕のへっぴり腰を見るに見かねたのか隣に来て「こうやるんだ」と指導してくれ、バター茶まで差し入れてくれた。

頭頂、口、胸の前で合掌
地面に手を付き
体ごと地面に投げ出す



しだいに汗が噴き出て腹筋が張り始めた。だんだん周囲の視線が気にならなくなりリズムにのってきた。こうして五体投地を繰り返すうちに、ふと、2007年のギュースムに挑戦した際(第24話)、最後にチベット医学の仏様に見放され、力尽きた理由がわかったような気がした。たしかに僕はチベット語や医学を真剣に学び、汗を流して薬草を採り続けた。しかし、チベット人として当たり前の部分、それも一番大切な根っこをなおざりにしてしまってはいなかったか。信仰心がなかったわけではない。ただ四部医典の暗誦に必死になるあまり、心に余裕がまったくなくなってしまっていたのだ。それは10年間のダラムサラ生活においても捨てきれなかった日本人的な欠点(合理性を重んじる性格)であったといっていい。きっと、五体投地をし、仏教の学問に励み(第125話)、気軽にお茶をしながらお喋りをし(第26話)、そのついでにギュースムに挑戦するくらい、心に余裕のある人間がギュースムというチベット医学の聖域に登りつめることができるのではと、いまになってようやく気が付くことができた。僕に足りなかったもの、それは眼に見える形での「チベット人らしさ」ではなかったかと。

子どもも五体投地
ラダックにて

S君が200回を終えたところで僕も一区切りをつけた。息がすっかり上がってしまっているけれど、とても気持ちがいい。やっとチベット社会の一員になれたような気がする。おかげさまで、日本に帰国したいまも、自宅で五体投地を続けている。畳の上での五体投地は体を投げ出すときに肘と膝に優しい。ただ、最近、運動不足なことから、主目的が、ついつい「健康」に傾きがちなことを、傍目で見ている妻から注意されては、そのたびに薬師如来の真言を唱えて信仰心を呼び戻さなくてはならないのだが。
そうして五体投地を繰り返す僕の姿をメンツィカンの同級生たちがみたら、「やっとオガワもわかったか」と、したり顔をされそうだけど、まあ、ちょっとだけ我慢して「そうだね」と笑顔で答えようと思っている。