当初、チベット人のお宅で、いつも白湯(チベット語でチュ・ツァボ)がでてくることに戸惑った。日本人にとって白湯は薬を飲むとき以外、客人に出すのはあり得ない。水を出すとすれば氷水だからだ。そしてメンツィカンに入学後、「白湯は薬である」という意識がチベット社会に根付いていることを知ることになる。チベット医学では白湯を飲んで胃の消化力を上げることを重要視し、消化不良こそが万病の原因とされているのである(注)。八世紀に編纂された『四部医典』には次のように記されている。
胃は畑のようなもの。(太陽の温もりがなければ作物が育たないように)胃の火熱を大切にしなさい。(釈義タントラ第28章)
内臓の全ての病は消化不良から生じる。(秘訣タントラ第7章)」
白湯の絵解き図
以前、ダライラマ法王・侍医を務めるダワ博士が来日されたときのこと。博士は氷が入った水には一切、口をつけず、代わりに温かいお茶か白湯を頼んでいた。サラダなど生ものの類は少しだけ食べて慎重に判断された。まず、よく噛んで性質を確かめられ、駄目と判断されたものは無理しない。博士は日本人の食生活に対して「氷を入れたり冷蔵庫で冷やしたりと冷たいものが大好きだなあ。でも、小さい頃から慣れているから問題はないのだろう。四部医典に“慣れ親しんでいるものならば(本質は害があるものでも)食べてもよい”と記されていることの典型だ」と警告を含ませながら語っていた。
確かに現代の日本人は驚くほどの氷好きで真冬でもいつでも喫茶店の水には氷が入り、ビールは一年中最高に冷えている。熱帯気候地帯ではないにも関わらずせっせと腹を冷やす稀有な民族だといえる。そういえばビールの本場ドイツやチェコスロバキアではビールを冷やす習慣があまりないらしい(行ったことはないけれど)。また、中国人が来日にして驚くことの一つに「冷えたウーロン茶」がある。また「冷えた葛根湯ドリンク剤」も中国ではありえない話だそうだ。確かに「湯」を冷やすというのは考えてみれば変な話だ。中国を旅行したときに僕が注目したのは、多くの中国人がマイポットを持っていて、自作の温かいお茶を持ち歩いていること。そして駅や空港には無料の給湯機が設置されていることだった。漢方においてもお腹を冷やさないのは養生の基本中の基本である。少なくとも冷たい水を飲んでいるうちはチベット薬や漢方薬は本来の効果効能が発揮できないことが予想される。
冷たいものを避け温かいものを摂取し胃の熱を保つ、という凄くシンプルな教えを実践しているチベット社会から日本人が学ぶことは多い。事実、なによりも自分自身、チベット社会で暮らしはじめ、(そもそも氷がないのだが)氷水と決別して3年目で明確な変化が現れてきた。大学受験のストレス以来、15年間に渡って悩み続けてきた過敏性腸炎がすっかり治ったのだ。もちろん他の要因も絡んでいるであろうが、どんな薬を飲むよりも、薬草を煎じるよりも、胃の熱を保つことに勝る治療法はないことを実感しているところである。
チベット、中国だけでなく日本の年配の方々に訊くと、冷蔵庫が普及する以前は常温の水か白湯しかなかったと教えてくれた。お腹が痛いときは「お湯でも飲んでおけ」と親からぶっきらぼうに言われたという。そんな話を耳にするとチベット社会との共通点を見つけて嬉しくなる。もしかして、ずっと昔から世界中のすべての民族がお湯を飲んでいたのではと想像すると、複雑で高尚な医学の議論がとってもシンプルになる。深い深い井戸の底で、ずべての民族の薬に関する英知が、同じ源泉「お湯」につながっているような感覚だ。事実、チベット医学では「薬の起源はお湯」と伝えられている。
もちろん、だからといって冷たいものを極端に禁忌視するのもよくない。すごく暑い夏に冷たいジュースやアイスクリームを食べるくらいの遊び心は許されるし、僕もたまに飲んで食べている。消化力が元気な20代までは気にしなくてもいいだろう。でも40代になったら今までよりも少しだけ胃の熱に注意して冷たいものを減らしてみてほしい。たぶん、そんなささやかな心がけだけで胃腸の病気は減るのではと期待している。
そういえば最近、お冷の代わりに白湯を出す喫茶店が上田市や松本市の近辺では増えてきた。「白湯にしますか、お冷にしますか」と店主から尋ねられたとき嬉しくなった。勝手に心の中で「チベット医が認めたお店」と認定してあげたというのは半分冗談だけれど、もっとこんなお店が増えてほしいと願っている。
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