第333話 マプチャ ~孔雀~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

孔雀 四部医典絵解き図より

孔雀 四部医典絵解き図より

「オガワは絶対に信じないでしょうけれど」と強く念を押された上で、つまりチベット独自の風習を外国人のあなたには理解はできないでしょうけれど、という前提のもとで、チベット語教師のツェドル(女性、当時20歳くらい)は顔にゼルパ(顔カビ)が生じたときの治療法を僕に熱く語りはじめた。それは必ず満月の夜でなくてはならないそうだ。

ツェドル 1999年 ツェドル 1999年

月明かりの窓の外で満月に向かい患者自ら「ゼルパ・ターソンゲー(顔カビは治ったかい)」とゆっくり唱えながら孔雀の羽根で患部をなでる。そのとき窓の内側で背を向けて立っている友人ペマが「ターソン(治ったよ)」とゆっくりと答えてあげる。ただし窓の外にいる当人と絶対に目を合わせてはいけない。このセットを三回繰り返すことで治ったという。実際に現場を見たことはないけれど、美人コンビが満月の下で真剣にやっている光景が眼に浮かんできた。

そういえば僕も小学生のときに顔カビ(おかめと呼んでいた)になったことがあった。「おかめが広がって眼に入ったら失明する」と保健室の先生から脅されて毎朝夕、必要以上に石鹸で顔を洗ったために、おかめは削り取られたけれど顔の皮膚が極端に荒れてしまった。もしもあのとき満月の夜に孔雀の羽根でなでていたら、恐怖が和らぎ、おかめは美しい記憶として残ったかもしれない。

チベット語で孔雀をマプチャという。仏教界では孔雀の羽は密教の法具として用いられ、毒を消し去る象徴として用いられる。それは孔雀が毒蛇やサソリを喰らうことに由来しており(注1)、上記の治療法はこの信仰に基づいている。したがって蓮と同じようにチベット高原に生息しないにもかかわらずその存在感はきわめて大きい(注2)。ただし18世紀初頭に描かれた絵解き図には孔雀が正確に描かれていることから眼に触れる機会はあったと思われる。事実、ダライラマ14世の自伝によると1950年ころ夏の離宮ノルブリンカには孔雀が飼われていたとある。

ノルブリンカ

ノルブリンカ

八世紀に起源を有し、インドの医学教典からの翻訳を基本とするチベット医学聖典『四部医典』には「孔雀肉は眼病、声嗄れ、老化に効果があり、ティーパの病、毒の病を破壊する(釈義相伝第16章)」などとある。毒を喰らっても平気なのだから、肉には同じように毒を消し去る力があるのではと、おそらくは古代インド人がそう定めたのであろう。「孔雀の美しい羽で湿布すると肺の膿が治る(同上第20章)」という教えは上記の民間療法のルーツと考えられる。また「孔雀が好む食には毒が混ぜられている(同上第17章)」とある。もしかしたらノルブリンカ離宮で飼われていたのは、ダライラマ法王の毒味のためかもしれない。

動物の習慣や草、鉱物の形状から関連付けられた薬効は象形薬理学と呼ばれ、四部医典には他にも多数登場する。「狼の胃は消化不良を治す(同上第20章)」とあるのは狼の獰猛な肉食の姿から、「ロバの血はリウマチに効く(同上第20章)」は荷物を運ぶロバの脚力から、「水牛の肉は眠りを誘う(同上第16章)」は眠そうにしている姿からであろう。「脳に似た石は脳の傷を癒す(同上第20章)」はわかりやすい。ただしこれらの教えは古代の風習として敬意を表しつつも、現代において医学的に実践すべき教えであるとはメンツィカン(チベット医学暦法大学)は捉えていない。

狼の舌

狼の舌

日本においても象形薬理は身近に存在する。「黒豆は腎臓にいい」というのは豆の形が腎臓に似ていることに由来する。タンポポなど茎を折ると白い液がでる植物は「母乳の出がよくなる」と各地で信じられた。ザクロなど赤い食物は血液と関連づけられた。卵を酢に浸けておくと殻が溶けることから「酢を飲むと身体が柔らかくなる」と僕はずっと信じていた。下の乳歯が抜けたら上に向けて、上の乳歯ならば下に向けて投げ捨てたのは懐かしい思い出である。水銀の独特の形状からそこに永遠の不死の薬効を重ねたのは秦の始皇帝だけではない。こうして日本欧米を問わず世界各地において同じような風習は見つけることができるけれど、前述の四部医典の教えも含めて、象形薬理学が現代の医学で認められた例はほとんど存在しない(注3)

ロバの血

ロバの血

とはいえこうした素朴な民間信仰は医学の歴史における大切な1ページであり、現代においてたとえ効果を実感できなくとも人々の心の余白を埋めてくれる。そこに商売が絡んでくるとややこしくなるが、極端にこだわらない程度にこうした民間療法を楽しんでみるのもいいのではと僕は考えている。

注1
実際には孔雀は毒蛇を喰わないそうです。

注2
チベット文化圏の南端に位置するブータンの南部やインドのモン・タワン地方では孔雀が生息している。チベットにあるガンジス河の源流はマプチャ・カバブ(源流)と名付けられている。

注3
熊や牛の胆汁を服用すると胆汁分泌が促進されることは現代薬理学で認められている。また藤(フジ)の癌部分である藤瘤は漢方で癌に効くとして処方されている。これらは大枠で捉えれば象形薬理ともいえる。

 

小川さん 次回の講座

小川康さんが誘う東秩父村へ

[終了]暮らしの”くすり塾”-東秩父村- 【夏】キハダのくすりと染色

出発日設定2024/07/06(土)
ご旅行代金6,930円
出発地東武東上線・小川町駅集合

小川康さんが誘う東秩父村へ

暮らしの”くすり塾”-東秩父村- 【秋】よみがえる紫雲膏

出発日設定2024/10/12(土)
ご旅行代金7,480円
出発地東武東上線・小川町駅集合

小川康さんが誘う東秩父村へ

暮らしの”くすり塾”-東秩父村- 【冬】おなじみ七味唐辛子

出発日設定2024/12/07(土)
ご旅行代金7,480円
出発地東武東上線・小川町駅集合

コメントを残す

※メールアドレスが公開されることはありません。