メンツィカン(チベット医学大学)入学前の2001年、チベット亡命政府厚生省事務次官ユースクさんと知り合った。ユースクさんは当時50歳くらい。チベット人にしては珍しい名前だなと思っていたら、イスラム教徒名だというので驚いた。チベット人にはキリスト教徒もヒンドゥー教徒もほとんどいないが、イスラム教徒は少数存在していると、このときはじめて知ることとなる。
チベット語でイスラム教徒のことをカチェといい、その語源は地名カシミールにある。カシミールはチベット文化圏の西端ラダックの東に位置し、ラダックは仏教とイスラムの文化が混合している。さかのぼること17世紀半ば、カシミール地方に大規模な飢饉が発生し、多くのカシミールのムスリムがラサ地方に逃れてきた。そのときダライ・ラマ5世は彼らに特別な権利を与えた。そして1959年ダライ・ラマ14世がインドに亡命するとき、多くのムスリムが後を追ってインドに逃れ、その何人かはチベット亡命政府に長らく奉職しているというからユースクさんはその流れでのカチェだったのかもしれない。

ラダックのモスク
イスラム教徒とはいえユースクさんはチベット語を話し、ダライ・ラマ法王を尊敬し、息子たちはチベット人の学校に通っていた。学校では仏典を読経しても家に帰るとコーランを諳んじていたのかどうか、故人となったいまとなっては確かめようがない。無類の大酒飲みだったことから敬虔なイスラム教徒でなかったことだけは確かである。イスラム教では飲酒は禁忌である。
チベット仏教にとって母なる存在であるインド仏教は12世紀にイスラム軍によって滅ぼされたとされているため、イスラムは仏教の敵というイメージが少なからず定着している。また、キリスト教と同じく一神教であるイスラム教は多神教の仏教と教義的に折り合いにくい……と専門書には記されているが、たぶん、僕も含めて日本人には一神教と多神教の違いの重要性はピンとこないだろう。
しかし、前述したようにチベット社会とイスラムとの相性は意外にも良好である。1940年ころにはイスラム教徒カチェ・バルが著したチベット語の小冊子『カチェ・パルの助言』が人気を博したという。この書物は、仏教・イスラム共通の道徳の要点を素朴な言葉で書き表したもので、今生の幸せとそれよりもっと大切な来世の幸せは区別する必要があること、修行というものは万人の幸せのためになすべきであることを述べていたというが、この歴史的事実を知ったのはつい最近のことである。当時、ユースクさんにこの話題を振ったら、きっと盛り上がったことだろうと悔やまれる。そのなかの有名な一句を紹介したい。
カチェ・バルのこの心からのアドバイスに
耳を傾けるかどうかは、それぞれのお考え次第
僕がメンツィカン卒業以降の2009年以降に定宿としていた・ダラムサラのゲストハウスの経営者はイスラム教徒で、毎朝、コーランの朗唱が聞こえてきた。とても気持ちのいいスタッフたちで、おかげでISなどイスラム過激派のことばかりが日本で過激に報道されても、ユースクさんを含めて素朴なイスラム教徒の方々を想像することでバランスをとることができた。なお、コーランは基本的に他言語への翻訳が禁止されていて、必ずアラビア語で朗唱しないといけないというが、四部医典に関しても、チベット語でその詩文を朗唱しないとその本質は理解できないと僕は考えており、その意味において、イスラム教徒との知的共感を(わずかではあるが)得ることができている。そして、そんな自分を顧みることで、若い世代の人たちにはどんどん海外へ飛び出してほしいという老婆心が芽生えてくるのである。

モロッコ・カサブランカのハッサン2世のモスク
参考書籍
『ダライ・ラマ宗教を語る』(ダライ・ラマ14世 三浦順子訳 春秋社 2011)