第158回 ラ ~森のくすり塾~

別所温泉から上田市街を望む

 人生初のギックリ腰をやってしまった。3月、東京から上田・別所温泉への引っ越し作業中、重い荷物を運び終え、最後の最後、軽い段ボールを持ち上げた瞬間のことだった。油断大敵とはこのこと。ヒマラヤを駆け巡ったアムチたるもの体力には自信があっただけに、かなりのショックである。わずか一年とはいえ東京での生活ですっかり体がなまってしまったようだ。コルセットを巻いてトラックを運転し、現地では知人たちに荷卸しを手伝ってもらいなんとか終えることができものの歩くのもやっと。ゆっくりとしか歩けない自分に妻は「これでやっと私もゆっくり歩くことができる」と意外と楽しそうだ。そういえば普段は意識が先に走り、次に手足がつんのめり、最後に腰がつられて追いかけていくような動きだったことに気がつかされた。こんな不自然な動きでは腰に負担がかかるはずだ。
 30代のほとんどをメンツィカン学生として過ごし、昨年からふたたび早稲田の大学院生になったために、気持ちだけはいつまでも20代のままなのはいいのか悪いのか。人生ずっと学び続けるぞ、という意気込みもいいのか悪いのか。そして、このギックリ腰は「ちょっと待てよ。もう若くはないぞ」と人生初のブレーキをかけられたような気分になった。

夫婦道祖神

 そうして引っ越しを終えて一段落し、腰の痛みが落ち着いた2週間後、僕は近くの修那羅(しゅなら)峠へと出かけた。修那羅には僕が大好きな道祖神をはじめとした石仏が800体近くも山道に並んでいて地元の人たちからは「お修那羅さま」として親しまれ信仰されている。昔から道祖神や石仏が好きだった僕は(第81話)20年前にも訪れたことがある。
 そうして石仏を拝みながら山道を歩いていると思いもかけず峠にでてしまった。突然、眼下に広がる向こう側の村々。来た道を振り返ると前と後ろ、稜線を境に劇的に風景が異なっている。その瞬間、「ああ、俺も44歳、人生の峠を越えた。折り返しなんだな」と啓示を受けたがごとく心が軽くなった。人生、長生きして88歳だとしたならちょうど半分。そうか、そろそろ無理しないで、次世代に伝えていくことを第一に考えていかなくては。教育に興味を抱いたのも(第129話)、そろそろ峠だよというサインだったのかもしれないな。いままでも母の死という精神的な峠があったけれど、肉体的にも峠をむかえたようだ。これからは峠の坂道をゆっくりと下っていこうではないか。

修那羅峠からの風景

 峠、チベット語ではラといい、そのシンプルな発音からも日本以上に重要な意味を持っていることがわかる。ちなみにラダックのラは峠の意味である。ときに5000mのラを越えて行き来をしなくてはならない彼らにとって峠は神聖な場所である。タルチョを掲げ、峠を越える時には「ハーゲーロー(神に栄光あれ)」と峠の神々に祈りを捧げる。また、チベット医学にとっても峠は重要で、なぜなら峠の前後には有用な薬草が豊富に生えているからだ。メンツィカンのヒマラヤ薬草実習の舞台も4000mのロータン峠(第2話)周辺である。峠の前後は気象の変化が激しく、また雲が山にぶつかって湿度が保たれやすいことから多様な植生がうまれる。したがって、ヒマラヤと信州は峠の数が多いからこそ、薬草は豊富なのである。

 日本人や欧米人は峠よりも山頂を登りつめることに意義を見出すいっぽうで、チベット人にとって山頂は崇める対象であるが、けっして制覇しようとは思わない。そして、僕もチベット社会に10年もいたせいだろうか。登山型の人生よりも、峠型の人生がしっくりくるようになった。体力や学習意欲の自慢もこれからはほどほどにしたほうがよさそうだ。
 別所で「森のくすり塾」をはじめるその日にギックリ腰をやったのも何かの縁かもしれないな。「森」のなかで、薬草を通して「くすり」について、誰もが気軽に集い学べる「塾」のような存在になりたいと願って名づけただけで、特にこれができる、何が学べるというプログラムは設けていない。まずは自分自身の薬草の営みを大切にしていこうと考え、できるだけ山と森に近いところに古民家を借りることにした。

薬草畑を耕す筆者

 どうぞみなさん、東京や大阪から碓氷峠や三才山峠を越えて遊びにいらしてください。のんびりと薬草の焙煎でもしながら薬について語り合いましょう。

お知らせ。
チベット医学・薬草研修センターから「森のくすり塾」へ改称しました。実は、「医学」「研修」「センター」という背伸びをした単語にちょっと引け目を感じていたのです。

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