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ラオス ジャール平原への旅 〜第二話 少数民族の村〜

 
のどかな農村にも戦争の痕跡が

のどかな農村にも戦争の痕跡が

2008年ニューヨークタイムスで「行きたい国NO.1」に選ばれたラオス。

北に中国、東にベトナム、南にカンボジア、西にタイ、ミャンマーと5つの国に囲まれた内陸国で、日本からの援助で小学校が200校以上建設されている国でもあります。旅先としても、欧米のツーリストからの認知度は高いのようなのですが、残念ながら日本では意外と知られていないかもしれません。

最近は世界遺産ブームで、仏教寺院とフランス植民地時代の建物が調和した『古都ルアンプラバーン』や、アンコール王朝時代の寺院遺跡『ワットプー』が有名になり、現在世界遺産に登録を申請しているという謎の石壺ジャール平原も注目を浴びるようになってきました。が、ジャール平原には、世界の人々の注目を集めるもうひとつの顔があります。

【秘密戦争】

1954年ベトナム北部の町ディエンビエンフーの戦いで敗北し、インドシナ一帯からフランス軍が撤退することになった後、インドシナの共産化を恐れたアメリカは、ベトナムに介入。ラオスに秘密基地を作り、ラオスの少数民族モン族の青少年を訓練し、特殊部隊を構成し戦線に派遣しました。アメリカは民間のパイロットを使ったり、モン族の傭兵を利用したり、軍の関与の隠蔽に努めた為、ベトナム戦争中は明らかにされることはなく、秘密戦争と呼ばれています。特に1960年代に入ってからは、中国やロシアの後押しを受ける北ベトナムから南ベトナムのベトナム民族解放戦線への物資補給路(ホーチミンルート)を遮断するため、その軍事力をバックにラオス山間部を連日爆撃しました(補給路の約9割がラオスを通っていたといわれています)。


ラオスの悲劇

モン・クレーター

モン・クレーター

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爆撃に涙を流す大仏

爆撃に涙を流す大仏

そのとき使用されたのがクラスター爆弾で、1つの爆弾の中に収まっている何百個もの子爆弾が上空で放出されるため空の地雷とも言われている爆弾です。飛行機から見ると、今も、その空爆で出来た穴がシェンクワン周辺に数多く見られます。石壺のあるサイトにも、いくつかその爆撃の穴が残されており「モン・クレーター」と呼ばれています。街中にある「MAG(不発弾処理専門組織)オフィス」の説明によると、クラスター爆弾の残した不発弾を誤って爆発させたり、その金属破片を買い取る業者が現れ、家計の助けにと森に入って金属片を探す子供たちが被害にあうとうケースが今も報告されています。

ムアンクーンという村(かつての県都)ではアメリカ軍による爆撃で88箇所あった寺院の内、今残っているのはたったの1軒。それも屋根は焼き尽くされ、砲弾を受け、頭部や腕に焼け跡・傷跡が生々しい大仏がそこにたたずんでいるだけの寺院になっています。その村ではラオスに唯一あった病院も爆撃の対象となって破壊されていました。いかに空爆が激しくかつ無差別的であったかを思い知らされるところです。


モン族の村

戦後、独立を勝ち取ったラオス国内では、敵対した民族間や違う支持派の間には、虐待など容易には解決できないしこりがあったそうです。が、戦争が終わって30年あまり、11月のシェンクワンの町やその周辺の村には、刈入れ時だったためか、いきいきとして、のどかな田舎の風景がありました。また、モン族の村を訪ねると、そこは、人々の暮らしも、「モノがあふれ時間に追われる世界」とは違う、静かでおだやかな時間が流れる村でした。夫婦で飼料作りに臼を引く、子供がにわとりを追いかける、朝夕ともなれば、村にひとつの水汲み場に天秤棒を持った老若男女が集い、洗濯やカラダを洗う、正月を前に子供たちがコマ回しに興じる・・・光景。家族がともに暮らす風景があちらこちらに見受けられます。過去の歴史を知らずに見れば、なんて幸せな村だろうと思うのですが、投下された爆弾の殻を利用した家の柱や飼葉桶などを目の当たりにすると、複雑な気持ちになってしまいます。ベトナム戦争終結の1975年、社会主義国としてスタートしたラオスは、米ソ代理戦争のしこりを残しつつも、少しずつ古きよき時代を取り戻しつつあるのではないでしょうか。ないものねだりかもしれませんが、少なくとも通りすがりの旅人には、村の暮らしのベースになにか暖かいものがあるように思えました。

爆弾の殻を柱に利用した小屋

爆弾の殻を柱に利用した小屋

飼い葉桶になった爆弾

飼い葉桶になった爆弾


コマに興じる子供

コマに興じる子供

モン族の村にて

モン族の村にて