小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

チャクティク・ランゴーマ (直訳すると、鉄のリンドウ・牛の頭)
医者ともなると身だしなみにも気を配らねばなるまいと、日本から持参したジャケットを羽織り、ヒゲを剃り、颯爽と診察室に腰を下ろしたのはいいものの、この冬一番の寒波がやってきたために、どえりゃー寒いとなぜか名古屋弁が口をついて出た。人体と大宇宙を一体化して考えるとされるチベット医学の病院には暖房器具という文明の産物は望むべくもないが、自分も小学校時代、雪が降り積もる中を真っ白な半そで半ズボンで登校し続けたことを考えると、当時すでにチベット医学への修行は始まっていたのであろう。さすがベテランのデキ女医はセーターの上にダウンジャケットを着込んで寒さに備え、ほとんど雪だるま状態で大自然からのエネルギーを受け取り、患者の微細なエネルギーを感じ取っていく。とてもチャーミングで物静かな先生は、ひそかに僕が最も尊敬するアムチの一人である。優しいお母さんのように笑顔で淡々と脈を診ていく姿は、僕が唱える「チベット医学・家族論(第3話参照)」をまさに実践されているように映るからだ。

授業の合間に脈診の修練に励む生徒 デキ女医の診察風景は第26話参照
「いやー、新年のパーティーで飲みすぎちゃって気持悪いんですよ」
そう、新年休み明けの今日、ほとんどは飲みすぎ食べすぎの患者のため、脈がみんな異常に亢進しているのである。
「新年を楽しんだんでしょ。良かったわね。じゃ、朝は胃の熱を抑えるのに月晶丸(第19話参)、昼は吐き気を抑えるのにティクタ八味丸を処方するから、ちゃんと飲むのよ」
メンチョク・ティクタ・ゲーバ・ダックパ・ディ・ティツェ・ミクチュ・シャダン・セルワ・ジョム
竜胆八味丸という最上薬は、ティーパの熱(熱病の一種)、黄涙、黄疸、を癒す。
四部医典結尾部第4章

薬局に並ぶ丸薬。160種類ある。
そんな賑やかな病室に一人の垢抜けない老人が付き添いとともに訪れた。風邪をこじらせたのか喉が痛いという。先生は老人の右手を取ると丁寧に脈を診察しながら「おじいさん、どこから来たの?」と優しく尋ねた。
「私は、ずっとポタラ宮殿の管理をしておったものです。ソンツェンガンポ(7世紀のチベット王)の霊廟、次はダライ・ラマ五世(17世紀)の霊廟の管理をしておったのですが、先日、ダライ・ラマ法王に謁見が許された際、法王が私に次々と最近の宮殿の様子を質問してくださって・・・(涙)、なんとも有り難いことで・・・」
デキ女医は脈を診る手を離すことなく老人の話に耳を傾けている。老人の左手の脈を診ながら話を聴いている僕の脳裏に、ラサのポタラ宮殿の光景が浮かび上がったのは神秘の成せる業だろうか。
「そう、それはよかったね、おじいさん。じゃ、朝は月晶丸、昼はチュガン二十五味丸、夜は沈香八味丸を処方しますからね。すぐ喉は良くなりますよ」
「トジェスィー、トジェスィー(有り難いことで)」
老人は眼に涙を浮かべたまま手を合わせて診察室を去っていった。そしてまた食べすぎ、飲みすぎ患者が絶え間なく訪れる。
今年一年、患者の脈を通してどんな物語に出会うことができるのかとても楽しみにしているけれど、もう酔っ払いの物語だけはディクソン(結構)かな。

2009 年 8 月 3 日 月曜日



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