第3回●「ミンチェン・セルポ」聖水の奇跡

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

ミンチェン・セルポ

聖なる湖ラツォ。標高4,300mの峠に位置し、そこへの道のりは限りなく険しい。そして、ラツォの周辺にだけ群生しているというドラマチックな薬草ミンチェン・セルポ(キク科)を採取すべく男子生徒を選抜して特別 遠征隊が結成された。外国人だからだろうか、その中に僕の名前は入っていなかったが、先生に直訴して特別 に帯同する許可を得ることができた。なにしろ数年も前から、この神秘の湖に辿り着き薬草を採取できることの誇りを先輩から聞かされて夢みてきたのである。それは薬草実習のクライマックスといってもいい。

ベースキャンプを普段よりも早い6時半に出発し、恐らく3時間くらいかかったのではないだろうか、濃い霧の向こうにラツォを見つけた。直系80mくらいの真ん丸な湖で流れ込む川は一切無い清純な湖。時に、湖面 に訪れた人の運命や前世来世などを映し出すと言われているが、残念ながら僕の眼には喉の渇きを潤してくれる水としか映らなかった。

ミンチェン・セルポ、日本語に訳すと「名のある黄色い花」は、まるで僕たちを試すかのように山深い場所に生えている。「私が欲しければ、ここまで来なさい」そう囁いているような気がした。もしかしたら神様は薬草をお創りになった時、わざと一番大切な有効成分を抜き取ったのではないだろうか。「アセ(汗)」と「クロウ(苦労)」という成分が人間の手によって加えられた時に初めて効能が発揮されるようにするために。

聖なる湖ラツォの畔にて

そして、これはきっと男・お父さんに課せられた有効成分。その他、「愛情」という有効成分はお母さん、「楽しむ」という成分は子供によって加えられ、これらの物語を分かりやすく子孫へと伝えていくのがお祖父ちゃんお祖母ちゃんの大切な仕事。家族が一つになって薬を作ったとき、神様が計画したとおりの効能が発揮される。もしも、一人で全ての有効成分を加えて薬草を完成させることができたなら、その人はアムチ(チベット医)と呼ばれることだろう。この世界一過酷な薬草実習を在学中4度経験することによって僕たちは真のアムチへと生まれ変わっていく・・・。間違いない、アムチとは世界一の薬剤師なんだ。そう、だから僕は日本の薬剤師としてチベット医学を目指したんだ。
霧が晴れた晴天の下、何ともいえない光悦感に浸りながら薬草を15kgほど採取し、僕たちは帰路に着いた。

3年後の薬草実習のある朝、女生徒の準備がいつもとは違うことに気がついた。山々を駆け巡って色んな薬草を採取してくる男子生徒とは異なり、女生徒は毎日毎日、比較的危険を伴わないアワ(ユリ科)の採取と決まっている。しかし一部からは「もう、飽きた」という不満の声も上がっており、できるだけ男子と同じような課題を与えてみてはどうかと少なくとも僕は常々提案していた。3日前には「薬草実習は仕事であり、同時に学習の場でもある」と主張する僕と「患者のためにも少しでも多くの薬草を持ち帰らなければいけない」と主張する仕事至上主義の生徒との間で激しい口論が起きていた。お互いの手を振り払いあうほどの激論を多くの生徒が取り囲んで聴いていたものである。

「あれっ、女生徒はどこへ行くんだ?」「ラツォへ行くんだってさ。先生が引率するらしい」 毎日、毎年アワを地道に採り続けた御褒美として先生が粋な計らいをしてくれたようだ。しかし、無事に帰って来られるだろうか・・・。自意識過剰かもしれないが、先日の口論がきっかけかもしれないと思うと、その日の課題トンスィル(キンポウゲ科)を採取しながら気が気ではなかった。そして2時過ぎになって全員が無事にベースキャンプに戻ってきた時、僕はほっと胸を撫で下ろした。さすがにミンチェン・セルポを採取することは無理だったようだが、天候にも恵まれ、聖なる場所でお経を唱えてきたという。その顔は半ば興奮気味で、自分たちも男子同様、真のアムチに一歩近づいたという誇りに満ちているようにも見えた。確かにラツォは聖なる湖だ。その聖なる水を飲んだものをアムチへと変えていく。
お父さんのように骨を折って薬草を探し、お母さんのように心を込めて薬を作り、子供のように草を楽しみ、お祖母さんのように物語を後世に伝えていく。チベット医学とは、そんな大地に根ざした温かい家族のようなものだと僕は思っている。

小川 康 プロフィール