第31回●「ティタサンジン」赤い実の誘惑

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

ティタサンジン バラ科

ヒマラヤ薬草実習中盤(第1話参照)、野イチゴの蔓(ティタサンジン)の採取を命じられた。実でも葉でもなく蔓を薬に用いるとは何とも不思議な医学だと、いぶかしがるものの、これがなかなか重労働で蔓を忙しなく引き寄せても一向に袋に溜まらない。アワ(第25話参照)同様に辛抱強さを試される修行である。
そんな作業にいよいよ嫌気が指した折、山が気を利かせてくれたのだろうか、大きく真っ赤な実で敷きつめられた野イチゴの群落に出くわし狂喜乱舞した。薬の蔓よりも食のイチゴに心を奪われるのは生物の本能として当然であり、僕と親友のジグメは泥だらけの手で貪るようにイチゴを食べ続けたものだった。ヒマラヤの甘い息吹が僕の体の中に溶け込んで行く。やはり蔓よりも赤い実がいい。

収穫されたティタサンジン ベースキャンプ地マリーにて

“ティタサンジン・デプー・シンポドゥ
(野イチゴの実は美味い)”
と聖なる教典に書き加えるのは薬師如来さまへの冒涜だろうか。いや、左の御手にお持ちの薬壺にイチゴをお供えすればきっと御理解いただけるはずだ。でも、あの時、欲張って一つ残らず食べてしまったせいかもしれない。翌年から何度足を運んでも、同じ場所に赤い実は一つも成っていなかった。

ティタサンジン・チュセル・ナクタク・ケム
野イチゴの蔓は黄水と膿と血を乾燥・減少させる。
四部医典論説部第20章

2008 年1月、卒業試験を終えて帰国した僕はむかし暮らした京都の下宿で冬を過ごしつつ毎朝、安田陽介さんと一緒に大文字山(466m)に登っていた。僕と同じ歳の彼はまさしく大文字山の主と呼ぶに相応しい御仁で10年間、欠かすことなく登り続け、極貧時代は山に生える薬草や山菜で腹を満たしていたという。頭よりも体で、理屈よりも実践で、生きることそのものを通して山と接する姿に共感を覚えたのだろうか、我々はすぐさま意気投合し、薬草談義に盛り上がっているうちに帰り着いてしまう毎日だった。そんなある朝、痛いほどの寒さで目が覚めると外は雪が降っている。安田さんは来るのかな、と半信半疑で真っ白な雪に覆われた登山口まで行ってみると、白い息を吐き、いつものようにゴミを拾いながら登って行く背中が見えてホッとした。

冬イチゴ

「おはようございます。小川さん、よく毎日続きますね」
「いやー、正直言って、今日は安田さんがいなかったら、ここで帰ろうと思っていましたよ」
そうして笑いながら100mほど歩いただろうか、「大文字山で冬に食べられるものといえば冬イチゴくらいですね」と雪の中に埋もれている真っ赤な実を安田さんが教えてくれた。僕は真っ先に手を伸ばして、そのザクロに似た甘酸っぱさを堪能し、大文字山を、京都を僕の体に少しずつ染み渡らせていった。でも、5 個ほどだけ頬張った後、もっと食べ尽くしてしまいたい無邪気な衝動を抑えることができたのは、もちろんあのときヒマラヤ山中での後悔もあっただろう。しかし、やはり、自分が日本人であることと、恥ずかしながら、京都に暮らしているという自覚と遠慮が生まれはじめていることが一番の理由かもしれないと告白するとヒマラヤに失礼だろうか。そして、新雪を踏みしめて頂上に着いたとき、ここがアルプスの頂上ではないのかと我が眼を疑わざるをえない光景が拡がっていた。なんと京都盆地が一面真っ白な雲海に覆われているではないか。
「小川さん、こんな絶景には滅多に出会えませんよ」。
領主になったごとく二人で雲海を見下ろしながら「国褒め」という古くから伝わる儀式を日本史の先生でもある安田さんが教えてくれた。その名の通り京都の街を見渡しながら国を褒めるのであるが、思えば2004年夏、衝動的に大学を休学して帰国したものの何の当てもなく絶望に打ちひしがれる中、偶然に見つけた古い下宿に住むことに決めたのが京都との初めての御縁だった。小さな部屋に丸まって寝ながら「さあ、人生のどん底。後は這い上がるだけだ」と自分を鼓舞しつつも涙が零れ落ちたのを、いまこうして山頂から思い出す。あれから3年、京都に戻ると馴染みの店や多くの知人、友人が僕を待っていてくれるまでに、この街と僕の関係は成長した。雲はしだいに切れ始め、海の合間から雪に覆われた美しい街が姿を現してくる。僕は心の中で強く、静かに、確かに声が届くように国褒めをした。
「ありがとう京都。そして、イチゴ、御馳走様でした」。


参考:大文字山を食べる〜山菜・キノコ採集記〜 著・安田陽介

追記
3月、4月、5月はダラムサラのベストシーズンです。お勧めはトリウンド山(2,900m)への日帰りトレッキングコース。3月は赤いヒマラヤシャクナゲ(第21話参)で彩られ、4、5月は野バラの甘い実(第6話参)に出会えます。薬草談義に花を咲かせながら一緒に山に登りませんか。そして頂上からチベット人・ダラムサラの街を「国褒め」しましょう。お待ちしています!

小川 康 プロフィール