出発日:2025年10月15日
文・写真 ● 川崎 洋一(大阪支店)
ツアー名● 中国シルクロード 天山南路とタクラマカン砂漠とパミール高原9日間
まだ暖かさが残る日本を出発し、中国新疆ウイグル自治区にシルクロードを訪ねました。
1日目 北京の教訓?
事件は初日に起きました。悩ましい中国入国の「指紋登録」もクリアし、北京の空港でウルムチへの乗継便を待っている時です。少し余裕があったので、みなさん、売店で飲み物を買いに行かれてました。空港ならカードも使えて気軽に買い物ができるので便利です。
「ここのコーヒー高いねー」。なんと1杯128元(約2600円)。青島ビールが18元(360円)、ミネラルウォーターが8元(160円)の店での価格です。紙袋を見ると「猫屎珈琲」とあります。屎???おそらくこれは、ジャコウネココーヒー(ジャコウネコのフンに消化されずに残ったコーヒーの種子を取り出して、衛生的な処理をして、作るコーヒー)!この漢字で売り出して大丈夫だったのでしょうか。早速私たちは2つのことを学びました。
1.日本の常識で考えてはいけないこと
2.もしかしたら、物価高いかもということ、、、です。

屎の一字が気になるコーヒーショップ(北京)
初日は北京で乗り継いで、新疆ウイグル自治区の省都ウルムチで1泊です。日本は秋に入ったとは言え、まだ暖かい日もありました。北京の空港では21℃のアナウンス。深夜着のウルムチの機内アナウンスは8℃でしたが、空港で出迎えてくれたガイド氏は、「―3℃」と言います。「今日ウルムチで初雪が積もりました」と。ホテルの前に駐車中の車にはしっかり雪が残ってました。

今年開港したウルムチ新空港 広く、美しく、快適です

しっかり車上に雪が残ってました(深夜のウルムチ)
2日目 シルクロードの水の技術と土の芸術に感動
今回はウルムチは1泊でウイグル人地区の観光をする時間がないからと、ウイグル人地区の近くのホテルに泊まりました。朝8時ごろ、おもてに出てみましたがまだ真っ暗。新疆も北京と同じ時間帯なので、今日の日の出は8時20分。まだ薄暗い中、せっかくなので散歩に出てみました。ジャージ姿の中学生が暗い中かばんを背負って歩いてました。登校も北京時間だとしたらさぞや辛そうです。朝早くから通勤のお客様がいらっしゃるのか、食堂も何軒かすでに開いて、道端で料理を始めてました。

朝食時間に合わせて仕込み中?牛肉や羊の脂、玉ねぎなどを入れた蒸しマントウ(ウイグルの軽食)
午前は、新疆ウイグル自治区博物館。昨年も来ましたが、なんと!ミイラ館がリニューアル・パワーアップして、見やすく、わかりやすくなっていました。ただ、残念なことに、そこだけ撮影禁止になってました。ちなみに、ここで張雄という将軍のミイラが展示されていたのですが、彼は後に再登場します。

かなり広くて充実した博物館です(ウイグル自治区博物館)

ミイラ館内は撮影禁止につき、入口だけ
3,000年前の岩絵の人物に「謎の角」が描かれていたのが、近年、ある発掘調査で、先住民族の帽子ではないかという説が浮上したそうです。当時の人はコーカソイドで中原とはまったく異民族であったようです。

左の岩絵の一番上の頭の角が、この右の復元図の民族ではないかと・・
キジルの171窟のデジタル修復の部屋やクムトラ石窟と思しき壁画(天井図)も見ごたえがありました

キジル千仏洞の171窟を復元、よくできてます

おそらくクムトラ石窟の壁画と思って撮りました
真剣に見たら何日かかるか想像もできない収蔵物、そして情報ですが、その中のポイントだけに絞って案内してもらいました。
午後はトルファンで観光です。天気がよかったので、ボゴダ峰を眺めながら、達坂城の峠を越えて南新疆へと入っていきました。

風力発電のプロペラが無数にある中、天山山脈のボゴダ峰できれいに見えました
最初に訪れたのはカレーズ。

まず、カレーズのイメージをかわいらしい絵で説明
いきなり「う、やすっぽいテーマパークか?」という反応でしたが、入ってみると、なかなかよくできた施設で、新疆では2,000年前からと言われていること、毎年20~30本カレーズは使われなくなってること、しかし、今も使われているカレーズがあること、人口の増加に追い付いていない現状、そして、カレーズを作る技術など多岐にわたってパネル付きで解説されていました。実働のカレーズの水も澄んでいて、ちょっと感動しました。なにより、ここで飲んだぶどう生絞りジュースがおいしかった。

カレーズを作るには土木技術以外にも、地質の知識が欠かせないようです

現役のカレーズの透明度にびっくり

目の前で絞っていただきました
次に交河故城に向かいます。2つの川に挟まれた中州、川の中から一隻の岩の軍艦が浮上してきたような形の土地に刻まれた町。刻まれたというのは、ここでは、多くの建物は、土を掘って作られたということです。日干しレンガで造られたものもあるが、土を削って作った建物は長い年月でも崩れにくいというのです。確かに翌日行く高昌古城と比べても建物の形を成しているものが多いと感じました。

交河故城の南門があったところ

左奥に大仏寺があります、これだけの町を彫って作ったかと思うと・・・

この建物は日干しレンガか版築でしょ?と聞いたら、いいえ、これも彫って作ったそうです
続いて訪れたのは蘇公塔。「蘇さんの建てた塔」。蘇さんは18世紀、この地方を治めていたウイグル族のスレイマン2世。漢字名が「蘇来曼」。父が清朝のために貢献した偉業を称えて建てられました。蘇公と聞くと中華な人物のような気がしますが、スレイマンと聞くと、なぜか中央アジアからトルコ系の人をイメージをしてしまうのは私だけでしょうか?また、建物のなかにある石碑には漢字とウイグル語でその縁起が書かれてるのですが、(真偽はわかりませんが)片や乾隆帝に感謝します、とあり、片やアッラーに感謝しますと書かれていると聞きました。

塔は15種の模様のレンガが美しく配置されています
日が落ちたころ、ぶどう農家を訪問。日本語のできるご主人からぶどうの収穫の苦労や、干しぶどうの作り方、冬にぶどうのつるをどう保存するか、さらには、最近のぶどうビジネスについてなど興味深いを話を聞きながら夕食をいただきました。ぶどうの蔓って冬場、土の中に埋めるんですって。初めて知りました!そして、トルファンの気候は、干しブドウを作りやすいのと同じで、人間もミイラになりやすいそうです(笑)。

ぶどう話しにみなさん、興味津々でした

野菜多めでやさしい味のラグメン、最高です!

デザートには、葡萄に加え、ハミ瓜と干し葡萄も添えられて大満足でした
3日目 高昌故城とベゼクリク千仏洞
今日はまず、玄奘ゆかりの高昌故城に行きました。

シルクロードといえばこの人・玄奘三蔵
そして、遺跡の入口にハミの伊吾国まで玄奘を迎えに行ったと言われる高昌国の大将軍の像がありました。それが、そう!張雄さんです。前日訪れたウルムチの博物館でミイラ姿で出会った張雄さんです。ミイラって太古の人ってイメージがあったのですが・・・今までよりミイラがちょっと身近に感じられるようになりました。

高昌国の大将軍 張雄
果たして遺跡には一番乗りです。そのおかげか広い遺跡はほぼ私たちで貸し切り状態でした。とても広いため電気カートで巡ります。かつてはロバ車で回っていましたが、ロバの方が経費がかかるのでしょう。ちょっと残念な気がしました。ロバ車よりスピ―ドが出るのはいいのですが、真夏は暑くてしかたないこの地も10月にはちょっと肌寒かったです。
長い年月の中、朽ちた建物の残骸の中を風を浴びながら進みました。最初に東南小仏寺に到着。チベット式仏塔と五仏を祀っていた仏殿を見学。13~14世紀のものなので修復されてはいるものの、当時の面影をしのばせます

チベット密教マンダラ塔

仏殿の中。五仏が安置されていたというが、4つの残像しか見えません。おそらく中心の大日仏は前面にあられたのでしょう

当時は、火焔山の手前まで面々と建物が立ち並んでいたのでしょう
カートから北の城壁の向こう延々と続く火焔山の峰とその後方にうっすらと雪をかぶった天山山脈を眺めていると、玄奘が高昌国王・麹文泰に請われて説法をしたといわれる宮殿に着きました。
今はわずかに高い塔と城壁が残るばかりです。ガイド氏は、玄奘が説法したこの城壁の中です、と説明します。
玄奘はこの地に約1か月半留まりましたが、当時高昌国王麹文泰は、玄奘の徳の高さに惚れ込み、天竺に行かずにここで仏法を説くようにせがみます。玄奘は天竺への目的を告げやんわり断りますが、王は「それなら、ここを出させないまでだ。唐の皇帝に密告するぞ」くらいに脅します。玄奘はそれに断食で対抗。4日目には王は折れて天竺行きを許すだけでなく、人馬を提供し、黄金や銀など20年分の旅支度金を用意したそうな。
今のどこかの王様(?)には、断食くらいでは正義を通すことは無理そうです。残念!

宮殿への入口。この中で玄奘が説法したそうです
王は300人以上入る大きなテントを張って玄奘を迎え入れ、1か月間、臣下や僧たちとともに説法を聴いたようですから、さぞや広い会場だったのでしょう。

玄奘が高昌国王に請われて1か月説法をしたのはこのあたりか?
ただ、説法した場所の候補地が複数あるようなのです。
カートで少し行ったところに、その、もう1つの候補地がありました。東南大仏寺の講堂です。講堂とは「説教・講和をする堂」ですから、言葉の意味的にはこちらの方がふさわしい気もします。しかし、説法は300人規模の聴衆だったようですし、王はインドから戻ったら再びここに来ることを約束させて、もてなした貴賓ですから、この講堂では狭すぎでしょう。ここはガイド氏の主張に納得、さきほどの宮殿跡の方がしっくり来ました。

もうひとつの候補地の講堂。でも、どうして屋根がないのでしょう? 謎です

講堂の横にある中央塔にある、うっすら色が残る仏龕(がん)
続いて、ベゼクリク千仏洞を訪れました。火焔山のふもとを流れる川沿いにある断崖に穿かれた石窟です。今はとても快適な道が通じていますが、周りの風景は両側に山が迫る谷筋です。1980年代でしょうか、そのころはトルファンからここを目指した取材チームが、途中の悪路のため半分くらいたどり着けなかったという記事を読んだ記憶があります。石窟全盛時代は祈りに集中できるような環境だったと想像されます。

ベゼクリク千仏洞はこんな谷筋にあります

ベゼクリク千仏洞
ベゼクリクとは「装飾された家」というような意味。20世紀初頭、ルコックなどドイツ探検隊が来た時、この場所は砂に埋もれていたといいます。ドイツ隊はその名前を聞いて発掘をしたのか、発掘した時の美しさにそのように呼ばれるようになったのか?きっと前者であろうと思うのですが、探検や研究といった美声の元に数々の収奪を尽くされた今のベゼクリク千仏洞には、残念ながその「名前」に実感が湧きません。それでも、16窟、17窟のラピスラズリの青や27窟の赤の彩色に、その片鱗を感じます。33窟の泣き笑いの異国感あふれる人物像、39窟の須弥山のストリーなどをかみしめながら、研究目的のため?まるごと削り取られた壁や、異教徒の仕業か、削られた仏様の目の痛ましさを見ることは、一つの学びにもなるのかもしれません。今回ベゼクリク千仏洞では、壁画に描かれた仏様の目が削られている理由を、係員は「たとえば家族が病気になったとき、鬼のせいだとする。鬼に見つからないように、壁画の仏の目をつぶした」とし、決して『イスラム教徒がした』とは説明しませんでした。何か配慮がなされてるようです。(内部は撮影禁止のため写真がありません)

火焔山といえば孫悟空!
さあ、今日は、鉄道でクチャまで移動です。昼食を食べて鉄道駅へ向かいます。昼食はトルファンでも人気のウイグル料理のお店でいただきました。評判通りおいしくいただきました。

シルクロードの定番・プロフとシシカバブ!これがあれば何もいらない!(あっ、ビールは要ります!)
ほぼ古い天山南路にそって走る鉄道で進みます。3段ベッドの硬臥車。玄奘の時代はこの道に2週間は要したでしょう。我々は申し訳ないのですが7時間横になって過ごせます。北京とは実質2時間くらい時差のある新疆では日没が遅く、20時すぎ。日没を待っての夕食はお弁当でした。想像以上にしっかりメニューでおなか一杯!クチャまでは長旅かと心配しましたが、車窓の風景やよもやま話、車両探検などで意外と早く過ぎ無事クチャに到着しました。車両によって多少、車内温度が違ってたり、トイレ故障で隣の車両まで大移動があったりと土産話もできました。

南疆鉄道でクチャをめざしてます
4日目 鳩摩羅什と玄奘
今日は、仏教の翻訳家として「二大訳聖」と呼ばれる鳩摩羅什と玄奘、2人にゆかりの地を訪れます。
まず最初は、キジル千仏洞の鳩摩羅什(くまらじゅう)さんに会いに行きます。インド・カシミールの貴族を父に持つ、クチャの高貴な出自にして、当時まで目新しかった大乗仏教に目覚め、数多くの仏典を中国語訳した、大乗仏教界では偉大な高僧にして、何十年も幽閉されたり、訳あって破戒僧とならざるえなかった運命をお持ちのお坊様です。
その前に、玄奘が通ったであろう「シルクロードの本道」の一部・塩水渓谷に立ち寄りました。1,400年前に思いを馳せてみました。川の干上がったところには塩が露出し、美しい地層が脈打っていてなかなかの景観です。堆積層だとするとかつてここは海か湖の底だったはず。だとしたら1,400年どころの話じゃないですね。テティス海だとしたら何千万年前とか・・・?思いを馳せるにも時間がかかりそうです。

すさまじい地層!玄奘も見たはず!でもこのトンネルは通ってなかったはず!
この下の川沿いの道が本来のシルクロード!
鳩摩羅什さんの待つ、キジル千仏洞に着きました。駐車場から千仏洞地区まではポプラ並木?とともにきれいに整備された道を歩きます。

千仏洞は並木の奥にありました

鳩摩羅什に守られるようにたたずむキジル千仏洞(キジル=赤の意味)
石窟内は撮影禁止なので写真はありませんが、27窟で見た「手の形にえぐられた壁」(=信仰心から壁に手を当てて祈る人が絶えなかった証拠)、32窟では交差するひし形模様の中にたくさんの因縁話の中から、紹介してもらった「釈迦が弟子に山頂から岩を落とされ殺されかけた話」がショッキングでした。また、『音楽窟』として著名な38窟の、左右の壁のインド、ギリシャ、中国、亀茲国の楽器を演奏する壁画や、天頂の太陽、月、ガルーダ、仏などの天相図、入口上の交脚の弥勒様が見ごたえがありました。『大唐西域記』にも、クチャ(屈支)は「管弦伎楽に特に優れている」とありますから、キジルにはふさわしい石窟だと思いました。「8窟では五弦琵琶(五弦のものは珍しいそうで、日本には正倉院の螺鈿紫檀五弦琵琶が有名です)を弾く飛天も飛んでいらっしゃいました。奥さん?同伴の、上半身を露わにした、たくましい男性の飛天でした。

38窟の天相図 中央の左から風神・立仏・ガルーダ・風神・立仏(その左右に太陽と月があるはず。写真は構内のバス停のパネルから)

8窟の五弦琵琶を弾く飛天男女(写真は最近できた博物館の展示から)
この日は中国国内の団体さんがいたせいか、とても込んでいて、横入りしたとか・しないとかで、一触即発の場面でしたが、両者、大人の対応で収まりました。

たくさん壁画を見た後は、おなかもすきました
午後からは、クズルガハ烽火台へ。烽火台とは敵や異変を知らせるのろし台。当時の国防システムの根幹です。ガイド氏の話によれば、五里一燧,十里一墩,百里一城(のろし台は五里ごとに、望楼は十里ごとに、都市は百里ごとに整えよ?)ということわざがあるらしく、前漢の時代、万里の長城は都洛陽から楼蘭のあたりまでつながっていて、このようなのろし台は、さらに西のここ(クチャ)まで来ていたとのこと。この泥の建物が前漢時代から2,000年を越えて立ち続けていることに感動です。しかし、五里は約2.5㎞。日本が飛鳥時代、白村江の戦いの後、慌てて明日香から九州までのろし台を設定したときには約20㎞ごとだった、とあります。中国の用心深さ、北方民族への恐怖心が現れか、それとも黄砂で見えにくかったのかしら? 日本の場合、半日で九州から明日香まで(約500㎞)伝達されたという最近の実験結果がでてますので、クチャから洛陽(約3,500㎞)から計算して約3.5日で敵の来襲の一報が都に届いていたことでしょう。

基本泥の建造物がこんなに長く残っているとは!?

烽火台の前は、枯れ川が防御機能も有していたのかも

烽火台のそばにあった記念撮影台にて(この後ろに烽火台があれば絵になるのになあ・・・)
本日最後はスバシ故城へ向かいます。最近は「スバシ仏寺」と表記されています。敷地が広いのでかつては都市と思われていたのでしょうか。ここも玄奘にゆかりがあるお寺で、大唐西域記の中に出てくる、大きな河をはさんで東西に伽藍のある大きな寺院「昭怙厘大寺」に比定されていて、もし、「昭怙厘大寺」であれば、クチャ滞在の60日余の間に何回も訪れたようです。その中で高名な僧グプタと問答するシーンが描かれてるのですが、果たしてそれはどこだったんでしょうか? 僧坊?講堂?ちなみに、構内には堂々と「玄奘がお経を説いたところ」と看板が立っていました。人影もまばらで背景の末枯れた山塊の風景に溶け込んだような素敵な寺院遺跡でした。

後ろの山のシルエットもいいスバシ寺

整備された遊歩道を歩く
よく写真で見る仏塔(ストゥーパ)はガンダーラの影響を受けたスタイルとのことで、当時、文化の風はインドから吹いていたことを示しています。この付近からは、大谷探検隊が仏舎利の容器を発見したとか、頭を扁平に変形した少女(亀茲国の王女との説も)の墓が発見され、それが大唐西域記に書かれてる記述と一致したとか、またなぜかお寺の境内なのに妊婦の骨が出てきたとか、なにかと注目を集めています。

なにかと話題に上るスバシ西寺の仏塔

何の建物かわからないが雰囲気のあるスバシ寺
川の向こうにある東寺には道路が通じていないため、船で渡るか、川が凍結するのを待っていくしかないそうですが、今は一般観光はできないそうです。まだまだ新疆はこれからも新しい発見がありそうです。

対岸にある東寺の仏塔を遠望
5日目 タクラマカン縦断とホータン夜市
いよいよ、タクラマカン砂漠を縦断して、天山南路から西域南道へつなげます。長い長い1日です。
風景は市街地からポプラ並木、綿花畑、そして、かつて楼蘭のあったロプノールに流れ込んでいたタリム河を渡りました。そこをすぎると、いよいよタクラマカン砂漠の中へと突入していきます。

左右に綿花畑が広がります

楼蘭にも続く、タリム河を渡ります!
おりしも、この時期は、胡楊の黄葉のシーズンで中国国内から観光客が押し寄せていました。砂漠の箇所箇所に車を止めて写真を取ったり、休んだりする人の姿を多く見かけました。

ちょうど、胡楊が黄葉の季節でした

胡楊の林がありました

胡楊の林の中でハミ瓜タイム!

タクラマカン砂漠の片鱗が見えました
この砂丘を越えて数キロのところには、かつて亀茲国(クチャ)と于闐国(ホータン)を結んでいたホータン河が流れているはずなのですが、道からは残念ながら見えません。河沿いに道を作るより、砂漠の中に作った方が安全で容易だったんでしょう。
長いタクラマカン砂漠を縦断する道を過ぎ、ホータン到着。その間ずーっと、舗装道路だったのですが、最後に信号を見たのはいつだったか思い出せません。
ホータンでは、伝統織物の工房にお邪魔しました。「大唐西域記」にも、クスタナ国(ホータン)は「糸を紡ぎ、つむぎ織に巧み」だと記されています。しかも、今中国でアトラス織りの織物を製造しているのはここホータンだけだそうで、国がその伝統の保護に乗り出しているとか。天然染料の材料や織り器を目の前にしながらの説明に、さぞや時間と手間がかかるであろうと納得。品ぞろえもたっぷりのお店もありました。

染色の天然材料 上段右からークルミ(茶色)、槐((エンジュ 黄色)、茜(赤)下段右からー茜(赤)(重複)、ザクロ(赤)、ベニバナ(ピンク)

ホータンのアトラス織は国の保護もあり伝統が守られている

美しいアトラス織を仕上げるには何日もかかるそうです

アトラス織を扱う売店 渋めの色が天然染色(だったはず)
ちなみに、「三蔵法師伝」によると、玄奘は、カシュガル手前で象が溺死して失った経典を、ここホータンで補充しつつ、一方で唐の太宗皇帝に帰国の許可願の手紙をしたため、その返事を待っていたため十か月も滞在したそうです。私たちはほんの短い時間しか滞在できませんでしたが、きっと当時も居心地のいい国だったのですね。
さあ、長旅の疲れは夜市で取る!新疆では宵のうちの時間でしょうか。結構遅い時間に到着したのですが、熱気が満ちていました。

ホータンの夜市は毎晩熱い!
ホータン夜市(ナイトマーケット)は、まず、長い!100mはあるでしょうか。通りを挟んで両側に屋台がずらーり並びます。みなさん、その裏手に並ぶテーブルに、思い思いの店から食べたい物を買って食べて飲んで楽しまれます。そして、屋根があるので、雨の日でも楽しめます!さらに、これが重要なのですが遅くまでやっています。私たちが訪れたのは22時ごろ。それでも夜市は渋滞に近い込み具合でした。ホータン名物と聞いた「ダチョウのたまご」「ワンタン」「ジャム付きちまき」「タマリスク串で食べるシシカバブ」の4つ。すべていただきました。

ホータン名物?そろい踏み
ここで使ってる串は、タマリスクの木。タクラマカン砂漠周辺にたくさん自生していて、建築資材や家具などにも使われるようです。ここでは、シシカバブの串に使われています。頑丈なので土産に持って帰ろうかとも思いましたが・・・やめました。
雰囲気だけでも味わってください
6日目 最終目的地カシュガルへ
今日は最後の長距離移動日です。ホータンからカシュガルを目指します。ホータンは玉の産地として有名ですが、カシュガルは「玉の集まる所」という意味があるそうで、古くから交易の中心地だったのでしょう。綿花畑やクルミの畑などを通りすぎ、道中、トイレ休憩に止まったドライブインはざくろの産地の近くということで、ざくろの即売所、ざくろジュースの絞り売りなんかがあり繁盛していました。早速お客様もお求めになり、ご相伴に預かりました。さっぱりした甘さで美味しかったです。

車窓からクルミの畑が見えました(ホータンからヤルカンドの途中)

ザクロのお店。一人で切り盛り、大変そうでした(ヤルカンド手前のドライブインにて)

タリム川の支流のひとつヤルカンド川を渡る
ヤルカンドの町で昼食と、座りっぱなしの運動不足解消にちょっと街歩きしました。

昼食のレストランの前に並ぶ奇妙な物体

奇妙な物体の正体はかぼちゃ。その餡入り蒸しマントウが昼食のメニューに(ヤルカンド)
みかけないものみっけ!繭のようです。さすがに一般の人は買わないそうですが、アトラスを作る人やウイグル帽子を作る人が買います。ウイグル帽子の刺繍がシルクで、手刺繍なら、高級品と思われ高く売れるそうです。

さすがシルクロード、ヤルカンドの街中で蚕の繭が売ってました
また同じ店に不思議なものがありました。これは食べ物???

正解は、杏子、桃などの木の樹液だそうです。ウイグル人女性の美髪品ですって
新疆では、近代になってからも国内からの移民を奨励してあらたにオアシス(屯田の町)を作ったとも聞きました。各地で見かけた風力発電は中原に送電されてるとのこと。中国は今、石油、天然ガス、鉱物資源に満ちた新疆開発に力を入れていることがよくわかりました。また、ガイド氏は、ウイグル人はお茶に塩を入れて飲む習慣があり、茶店には砂糖ではなく、塩がおいてあるとか、ウイグルの古い結婚の習慣などについても、長い道中、飽きることなく新旧おりまぜたシルクロードのお話を聞かせてくれました。そしてカシュガル到着。途中の公安の検問や渋滞などで、今日も到着が予定より遅くなってしまいました。みなさまお疲れ様でございました。

カシュガルでの投宿先
7日目 ああ、カラクリ湖
この日、朝一の重要な任務は、カラクリ湖へのパーミットを取ること。国境近くに位置するカラクリ湖には許可証が必要です。外国人の申請窓口は限られていて、しかも旅行者自身が出向く必要があるとのこと。待ち時間も長く、我々にはうれしくない制度です。行ってみたら、私たちと同じような境遇の団体、個人も合わさって、申請窓口は人人人。トイレも渋滞する始末。それでも、思ったより早く許可証をゲットし、カラクリ湖を目指すことに。
1989年全線舗装が完了した中国とパキスタンを結ぶ中巴友好公路(通称:カラコルムハイウェイ)をたどっていきます。この道はカシュガルからイスラマバードまで1,300㎞をつなぐ道路で、現在は貨物輸送に加えて、カラクリ湖までの観光客で、かなりの交通量がある上に、検問もあり、ところどころ渋滞していました。
昼過ぎに到着したのがウパール村。今日は家畜市の立つ!ということでみんなで散策してみました。
いきなり、羊を詰め込んだトラックが市に到着。すでに到着していた羊はきれいに並べられて品評を待っている様子。壮観さ半分、かわいそうさ半分。

ぎゅうぎゅう詰めの羊さん到着

きれいに、でも痛そうに並べられた羊たち

みなさん、真剣に品定め中

商談成立!
家畜市には、らくだやヤクが来ることもあるそうです。

キルギス帽のおじさん発見! 牛、鶏、鳩も売ってました(ウパール村)
また、以前のバザールでは、札束をやりとりする姿をよく見かけたのですが、今回ほとんど見ませんでした。最近は電子マネーも使ってるのであまり目立たなくなってるかもしれません。開放的な家畜市で「ピッ」とかやってるんでしょうね。なんかちょっとしっくりきませんでした。(時代遅れの小言)
続いて、食べ物コーナーに移動しました。
家畜と違って、ここでは私たちにも、呼び込みの声が飛んできます。行ってみると、氷で冷やした容器の中でかき混ぜ棒が回っています。アイスクリームの自家製マシーンでした。
ザクロジュースです。丁寧に一個ずつ絞ってました。

ラグメンの麺を延ばしながら、呼び込みを続ける飲食店の2人(ウパール村)
左側上段から、ぶどう、ナン、涼粉(ところてんみたいな食べ物で黒酢などをかけて食べます)、串焼き、焼き魚。
右側上段からやきいも、スイカとハミ瓜、羊の内臓(細長いのが腸詰)や羊の肺、胃袋、プロフ、魚の切り身のから揚げ

空腹時に行くと危険!ウパール村バザール

空いてるので、ここで食べよかなあ・・・。
お昼時だったので、おいしそうな湯気を見るとたべたくなりました。しかし、先があるので次へと向かいます。

はちみつもありました(ウパール村)

おそらく漢方薬。本当に効くのかなあ?
ウイグルの即席散髪屋さん。おいでおいでするので、近づいて行ったら、「お前のひげも剃ってやるよ」と言ってるようでした。慌てて逃げました(笑)。
ウパール村を出て、中巴道路を走りながら高度をあげていきます。褐色の山が現れ、山肌が白くなったかと思ったら、広い河に出ました。

特徴的な紅い山並みが続きます

紅い山肌から白っぽい山肌に変わりました

ゲーズ河と白い山並み(ウパールと白沙湖の間)
そこから山の間へと入っていき、昔のシルクロードとキャラバンサライ跡とおぼしき建物などが現れました。今は快適な道を車で走っていますが、対岸の旧道を見てみますと、いつ山が崩れてもおかしくないような、険しい地形の中をたどっています。玄奘がインドからの帰り道、山賊に会い、お経などを運んでいた象が溺死したのが「タシュクルガン(カラクリ湖のさらに100㎞先)とカシュガルの間」でした。今はおとなしく流れる川も、ひとたび、雪解けや大雨の時には、濁流となってこの道を流れ下って来てたのかもしれません。舗装される前は、訪れる人は少ない、キャラバン隊も恐怖していた道だったと思います。そんな時を思いながら山の方を眺めていますと、あまりうれしくない雲が先を覆い出しました。

雪のついた岩山の麓を通るシルクロードの旧道とキャラバンサライ跡
カラクリ湖手前の景勝地、冬干上がった河原から白い砂が巻き上げられ、小さな山を作ってしまったというブロン湖(白沙湖)にまで来ました。

青空なら白い砂が映えるブロン湖でしたが、雲が迫ってきました
ここから渋滞が発生。どうやらカラクリ湖の駐車場が満車が原因のようでした。標高3,600mに位置するカラクリ湖。この地が人で埋まるほどの混雑になるとは20年前は想像もできませんでした。この日はあいにくの天候。待望の崑崙山脈第3の雪峰・ムスターグアタ峰は拝むことができませんでした。ただ、道中の風景やシルクロードの確かな痕跡を目の当たりにすることができたことは来た甲斐がありました。

天気がよければ、この辺にムスターグアタ峰があるはずなんですが・・・
帰りのトイレ休憩で停まったところでタジキスタンナンバーのトラックを発見。フンジュラブ峠を越え、パキスタンに行くルートだけでなく、タジキスタンへも続く、シルクロードの分岐点でもあったことを知りました。

タジキスタンのナンバープレートのトラックが停まってました
明日は最終日、しっかり楽しんで帰りましょう。
8日目 カシュガル満喫、そして日本へ
『大唐西域記』によると、ホータンについては「礼儀をわきまえ性格は温順、学芸を好み、人々は裕福」、クチャも「気候はおだやかで風俗はすなお」との記載されてるのに対して、カシュガルには厳しく「人の性質は乱暴、イツワリが多く、礼儀が浅く学芸が平凡」と書かれています。現在のカシュガルは南新疆の中心地であり、ウイグル文化の中心地ですが、玄奘の訪れた7世紀には、ホータン、クチャの方が人口も多く、仏教も盛んな先進都市だったのでしょう。
旅の最終日は今のカシュガルを散策しました。
朝、旧市街の入口へと向かいました。旧市街は高い城壁に囲まれた城塞都市。城門もきれいに復元され、おまけに毎朝「開城セレモニー」らしきイベントをやり始めたものですから、朝からすごい人ごみです。車両規制をして、ポリスも出動して交通整理、そして演者らが、時代祭のよろしく、時代を象徴するヒーロー、ヒロインを、バカでかいアナウンス&音楽とともに演じています。

カシュガル旧市街城門での時代祭(オープンセレモニー)
私たちは、演者より、それを撮影する観客の方が気になってしかたありませんでした。

押さないで~の声が聞こえそうな騒ぎ
我々はその前を横切って、旧市街を保存した高台民居街区へ向かいました。以前は普通の暮らしが営まれてたようですが、ほかの旧市街同様、観光客に合わせた半テーマパーク状態。それでも、カシュガルの旧市街の雰囲気を知るにはいい区画でした。

ウイグル民族楽器の演奏(高台民居での一画で)

美しいフォルムのウイグルナイフ。今は治安取り締まりが厳しく私たちは購入しても持ち帰れません。

中国版人間国宝?さんが作る陶器。コップが30元(約600円)でした。

『カシュガルに来ずして新疆に来たと言う勿れ』
さて、ここから旧市街の中心地区に入りました。街歩き開始で~す。

城内の旧市街に入ったところから、早速、買い物モード全開

私も食べる~

ほくほく、サモサ!

蹄鉄屋さん(左)/サモサ屋さん(中)/銅食器屋さん(右)

中国でもコスプレは大人気(左)/出番の合間にお買い物?(中)/昼下がりの雑談(右)
旧市街から職人街へ、1日かけて歩きました。(昼食挟む)

鍛冶屋さん直結の銅製の食器。急須は思わず買いそうになりました

琥珀や蜜蝋など、アクセサリー兼お守りのようです

ウイグルの伝統民族楽器ドゥタール

旧市街はほぼお店やさん、でも、それも意外と楽しめました

街中に残るモスク。でも今はコスプレ撮影の恰好のステージになってました

旧市街の路地にはいってみました
中国国内最大のイスラム教寺院エイティガールにも行きましたよ。エイティガールとは「お祭り広場」的な意味だそうです。観光客は老若男女問わず、観光に訪れてるのですが、イスラム教徒はモスクには男性しかお祈りに来ないので、ウイグルの女性はまず入場していないとのこと。これはこれでいいんだろうか?と複雑な思いを抱きつつ見学しました。

チャガタイ=ハン国の時代(15世紀前半)の創建のエイティガール

エイティガール寺院の柱は1本として同じ模様のものがないそうです。

問題です!これは何に使うものでしょうか?口にくわえたりしませんよ。

絨毯のお店もありました。アンティークかな。

三輪バイクでぶどう、ザクロを売るウイグルのおじさん

素敵なウイグル模様をあしらったビル

カシュガル職人街の一画

カシュガル職人街の一画
最後は、スーパーマーケットで、ドライフルーツなどをしっかり買い込んで、カシュガルの空港から国内線で北京まで戻りました。

長い旅を終え、カシュガル空港へ
9日目 帰国へ
早朝、ホテルでの朝食を終え、北京空港で待機。この飛行機で無事成田に戻りました。

北京空港から日本へ
いろいろみて、いろいろ体験していただこうと、少し詰め込み過ぎたところがある9日間でしたが、みなさん、しっかりついて来て下さりありがとうございました。
お疲れ様でございました。ご帰国後はゆっくりお休みください。
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※この添乗報告記と2026年度のツアーでは、日程の一部が異なります。
カシュガル・ホータン・クチャ・トルファン
新・中国シルクロード 天山南路とタクラマカン砂漠とパミール高原9日間

