
チベットのアンモナイトの化石
上堀の濁った流れに入って/魚を捕まえる少年/ユーモラスな鮒は/白い腹をみせてひっくりかえる/
魚の化石が出てきた洞窟の入口で/武将たちの子孫は/まだ髭もじゃの若い顔をしている
詩集「上田町づくし」田中清光1977年(注1)
長野県上田市一帯には、今から約1700万年前から520万年前までの間、“フォッサマグナ”と呼ばれる海が広がっていた。事実、全長8mのクジラの化石をはじめとして海の化石がたくさん発見されている。ここは、かつて海の底だったところに土砂が徐々に堆積して生まれた地盤である。そしてその過程の3万年前から1万年前ころ湖だった時代があり、その記憶をとどめる伝説と地名が残されている。上田市の隣、坂城町の鼠(ねずみ)という地名は、むかし、むかし、唐猫に追いかけられたネズミが湖の端の岩鼻を齧ったために湖水が流れ出たという伝説に由来している。(注2)上田地域に最古の人たちが住みついたのは2万年前とされ(旧石器時代)菅平など標高1000mを超える地域に当時の遺跡が分布している。つまり、当時は海のように大きな湖を見下ろしながら暮らしていたようだ。その景色がよほど美しかったからだろうか、湖の記憶は1万年後にまで受け継がれることとなる。

岩鼻の崖(上田市)
かつて海、湖だったから、と考えるのはロマンチックすぎるが、ここ上田地域の人たちの海への渇望は、富山県出身の僕からすると理解しがたいほどに強い。なにしろ上田市の隣の隣、佐久市の臼田地区は日本国内で海から最も遠い内陸部(約120キロ)として認定されている。70歳以上の人たちに「はじめて海を見たときのことを覚えていますか」と質問すると、みなさんそれは、それは熱く語ってくれる。おおよそ小学校の遠足の機会のときが多いようだ。いまでも日本海側の直江津や糸魚川に出かけて海水浴を楽しむとともに寿司、刺身を食べることが最高の贅沢とされている。
同じようにチベットもかつては海の底だった。4000万年、テチス海に浮かぶインド亜大陸がユーラシア大陸と衝突しはじめ、徐々に隆起した部分がヒマラヤにあたる。事実、ヒマラヤ、チベット高原からはアンモナイトなど海の化石を見つけることができるし(注3)、なによりも豊富に採取できる岩塩は海の大いなる痕跡である。そしてチベット民族にとって海はあまりにも遠すぎるがゆえに「憧れ」というレベルを通り越して「神話」のようになっている。海はチベット語でギャム(広大)ツォ(湖)といい、ダライ・ラマ14世のチベット名はテンジン(仏法保持)ギャムツォ(大海)である。無限の象徴として海が位置づいている。なお、魚文化のないチベットでクジラは個別認識されていないけれど、チベット語で表わすならばニャ(魚)チェンポ(大)となる。化石に相当する単語も存在しないが、哺乳類の化石は薬材として用いられドゥク(龍)・ルー(骨)と呼ばれる。

森のくすり塾がある野倉で発見された海の化石
よく「どうして上田に拠点を?」と尋ねられる。意識レベルで答えるならばオウレン、キハダ、ムラサキなど薬草の本場と考えれば海よりも山となるのは必然だったといえる。でも、もしかしたら、チベット社会で10年間ひたすら学び続けることで(ようやく)僕の身体に染み込んだ伝統医学の教えが、チベットと似た地勢の上田へと僕を引き寄せたのではないか、そんなロマンチックな想像をすることができる。
とはいえ上田に暮らしてまだ10年。「あそこの河岸段丘を高校のとき毎日、歩いて上り下りしていたのよ」「小学校のとき化石採集の授業があってね」という地元で生まれ育った人たちの何気ない話を耳にするたびに、クジラの化石を含めた上田の地勢を語るにはまだ早いという謙虚さが生まれてくる。でも1000万年の時の流れからすれば、岩鼻をかじったネズミも武将たちも地元民も移住者も旅行者たちも、たかだか数万年、数百年、数十年の重なり合う同時性として存在しているのでは、そう解釈すると少し気楽に歴史を語ることができる。
そんな上田とクジラの化石を題材にした映画「わたのはらぞこ(注4)」の上映がいよいよはじまった。全般にわたって上田市内でロケされ、森のくすり塾とともに僕は10秒だけ出演している。ただし、自転車で転んで足を骨折して薪割りができなくなったおじさん(小山さん)というなんとも情けない設定で、チベットや薬草とはまったく関係がないことを前もってお知らせしておきたい。

映画に出演した俳優たち 上田映劇

上田映劇 上映初日 監督と
注1
田中清光(1931~)は隣の千曲市で生まれ上田高校を卒業した詩人。化石にまつわる素敵な詩をもう一つ紹介したい。
泉田の野原から/魚の化石が出る/林檎畑のなかをドルフィンたちが/泳いだ/
つりがねにんじんそうの紫が/染めた石/とかげの睡眠を刻み/瑠璃色の女神の眼球を刻み/
やさしい幽霊の心臓を刻み/不意の暗号の頭文字を刻み/石は海を呼ぶ
詩集「海の化石」(1977) 参考資料 『上田市誌』
注2
むかし、むかし、唐猫に追いかけられたネズミが湖の端の岩鼻を齧ったために湖水が流れ出たという伝説
注3
アンモナイトの化石は骨の熱を癒す。/貝の化石は骨を癒し、黄水を引っ張る。
(四部医典・釈義部第20章)
注4
「わたのはら」は大海原(おおうなばら)という意味。
監督の加藤さん、脚本の豊島さんは「見えないけれどそこにあるもの。二度とは触れられないが、これまで確かにあったもの」の表現を試みたと語る。(信濃毎日新聞7月31日)
「わたのはらぞこ」
8月23日からポレポレ中野で上映がはじまります。