大谷探検隊と“旅する文化財”

先週(10/9)、中野照男先生のオンライン講座「西域(シルクロード)に魅せられた探検家たち」が始まった。その第一回は「日本・大谷探検隊と、西域コレクションのゆくえ」である。今回の講座の主人公は浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22世宗主、大谷光瑞と彼から西域などに派遣された探検隊の面々である。とても刺激的な内容で興味のある方はぜひ、見逃し配信でご覧いただければと思う。

ちょうど、この講座の前に司馬遼太郎と井上ひさしの対談集「国家・宗教・日本人」を読んでいたところ、大谷光瑞の探検隊の話題にふれていた。少しながくなるが紹介すると「…明治二十年代には内藤湖南という、当時まだ無名のノンキャリアの学者が大阪朝日の論説委員の助手のような立場で入社して、大阪の江戸時代の独創的な思想家を発掘するという大仕事をしました。その一人は富永仲基という醤油問屋の若旦那です。…近代的な文献学そのもので仏典を調査して、大乗仏典つまり阿弥陀経や法華経は全部お釈迦さんの言葉でではなく、四世紀、五世紀くらいにできたものだということを明らかにした。それで本願寺の大谷光瑞が震え上がって、のちに大谷探検隊を敦煌に派遣することになるんです。(司馬談)」と。はなしはそれるが、後に内藤湖南は京都大学の初代中国学教授になり、推薦したのが同じ秋田県出身の狩野亨吉である。内藤は鹿角の生まれで、鹿角は江戸期、南部藩に属していた。

講座では大谷探検隊が持ち帰った収集品(文化財)があちこちに散逸していくことが語られた。現在でも旅順博物館、北京図書館、韓国国立中央博物館、東京国立博物館、京都国立博物館、龍谷大学、大谷大学などにちらばっている。旅順や韓国ソウルなどに散逸しているのは、戦前の負の歴史を無言で物語っているようにみえる。

この収集品(文化財)の散逸にちなんで、先週の朝日新聞の天声人語に興味深い文章が載っていた。こちらも少しながくなるが省略して紹介すると「あの戦争とは、何だったか。児島襄(のぼる)は、その答えを生涯にわたって求め続けた近現代史の研究家であり、作家でもあった。大著『日中戦争』がある。そこで彼が舞台回しに選んだのが「故宮博物院」の歴史だった。1911年の辛亥革命を経て、清朝は倒れ、歴代の皇帝の居であった紫禁城は故宮と名を変えた。…故宮博物院の看板が掲げられたのは、1925年の10月10日のことだ。やがて満州事変が勃発し、故宮の文物の疎開が決まる。博物院の幹部は言った。『国家は敗北しても再興できるが、この文化の結晶は一度失えば永遠にとりもどすことはできない』。文物は1万9557箱に上った。北京から上海、南京へ。さらに盧溝橋事件で、貴州省の洞窟へ、四川省へと戦火からの逃避は続いた。日本の敗戦で南京に戻ったが、次は内戦で台湾に運ばれ、いまに至る。1万キロに及ぶとされる、この故宮文物の数奇な流転をみるとき、それは日本の大陸侵略と切り離せない史実なのだと気づく。歴史とは、幾多の糸が多層的に絡みあったものか。日中戦争は『日本の歩みのゆがみの起点』と児島は記した。きのう故宮博物院は100年を迎えた。…」

引用だらけの文章になってしまったが、洋の東西にかぎらず、財力や権力で収集された貴重な文化財は歴史にもまれ、ながい旅をするのだとつくづく思う。門跡寺院の門主として戦前、貴族の生活を享受し、探検隊まで組織した大谷光瑞も1948年、ながい旅路の果てに世を去った。

翠玉白菜(すいぎょくはくさい)
國立故宮博物院(台北)にて撮影

シェアする

コメントを残す

※メールアドレスが公開されることはありません。