目線

最近、目線の先が少し遠くなってきた。見るもの、感じるものが徐々に変わってきたように思う。そういうとなんだか生活スタイルが変わったかのようだが、一日の内、何時間もPCと向き合っている生活は何ら変わっていない。日曜日でも大抵、半日はモニターを前にしている。なんとつまらぬ生き方をしているものかと思う。日曜日くらい自然を愛でる程度の余裕があってもいいのに。

通勤中も、携帯を見ているか、本を読んでいるか、あるいは眠っているのが通常だ。ただ、最近は時おり頭をもたげて窓の外を見るようになった。11月に入ってからは帰る時間が遅くなったが、少し前までは、まだ明るいうちに家路へつけたから、車窓から夕暮れの風景が望めた。車内に夕日が射しこみ何もかもが黄色になる。特に何も考えないでボ~ッと遠くを眺めたりする。その先にある何かを探している風でもなく。

6月に事務所を7階に移してからは、私の机には夕日が射し込むようになった。縦型のブラインドで遮っても、11時の方向から夕日が間隙をついて射し込んでくる。眩しいが、暫くするとビルの向こうの空が色づく。すぐに、暗くなって見えなくなる。

松たか子の『松のひとりごと』(松たか子著、朝日文庫)にこんなことが書いてある。

舞台の上で芝居をしているときに、「目線」を決めることがたまにある。(中略)

『ハムレット』、『セツアンの善人』では、照明の方向を“神”に見立てて芝居をするシーンがあった。祈りの気持ちや神に訴えたいことを、一筋の光に向かって語りかける・・・・。そんなシーンだった。(中略)

人は何時も一点の光を見つめながら生きている。が、「その先」にあるものを見据えようとする心がなければ、人間らしい仕事とは言えないような気がする。ちょっと大げさな表現かもしれないけれど「その先」を見つめる力って、結構大切なんじゃないかなぁ。

そうか、目線を遠くして、「その先」にあるものを見つめなきゃいけないのか。目線を下げてばかりでは、やっぱりダメだ。つまり、希望を失うな、夢を萎ませるな、現状に満足して怠惰になるな、そんなことを言われているような気がする。この時期は富士山がきれいだ。我が家からも見える。富士の向こうに何があるか分からないが、「その先」を見つめる力を培っていこうと思う。

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