ベイビー・トレックでラダックの大地の輝きと出会う

文・写真●田中 真紀子


サルマンチャンラ峠からヘミスシュクパチャンを望む

サルマンチャンラ峠からヘミスシュクパチャン村を望む

秘境はもはや地球上に存在しない、そんな言葉を耳にすることがある。南極へも観光ツアーが出ている時代だから、その通りかもしれない。だが、秘境でなくとも、旅人の心を揺さぶる場所は世界にまだまだたくさんある。

ラダックMAP
ラダックMAP

北インドにあるラダック・ザンスカール地方は、そんな土地のひとつだろう。南北をヒマラヤの峰々に挟まれ、冬は峠が雪で閉ざされるため、今でも外界との通年の移動手段は空路に限られる。特異な地理的条件も影響し、多様な文化・歴史背景を持ち、チベット密教美術、人種・宗教の交差点、民間信仰、伝統医療、など旅のきっかけとなるキーワードも数限りない。もちろんそれらひとつひとつが実に面白く、思い出深いのだが、ラダックで私が何より魅了されたのはあの大地が放つ生命の輝き、にであった。

そんなラダックの土地が持つ魅力がぎゅっと詰まったトレッキング・ルートがある。リキルからティンモスガンまで続く、地元では「Babyトレック(赤ちゃんトレック)」と呼ばれている「シャム・トレック」だ。

ラダックMAP


ラダックの「ベイビー・トレック」

実はラダックには数多くトレッキング・ルートが存在する。その中でシャム・トレックは、別名の通り、比較的楽なルートといわれる。全行程を歩くと3日かかるが、風のラダックではいいとこどりをして、サルマンチャンラ峠(*1)からティンモスガンまで歩くルートを取る。この行程は、シャム・トレックの中でも比較的安易といわれ、高低差460m、歩行距離も総計約11km、合計歩行時間は約5〜6時間、キツすぎず易しすぎず適度な距離感を持ったルートだ。雄大な自然、のどかな農村、野生動物のよく出るスポットなどが交互に現れ、無理なく適度に、そして常に新鮮な感覚を保ちながら歩いていける。普段殆ど運動していない私でも難なく歩くことができた。その時の様子を少し紹介したい。

トレッキング開始!

ヘミス・シュクパチャン村の農作業風景
ヘミス・シュクパチャン村の農作業風景

トレッキングの出発点、サルマンチャンラ峠までは車で移動。峠からは、後方を振り返れば数時間前に散策したヤンタン村、前方には今日の宿泊地ヘミス・シュクパチャンの村が見える。ヘミス・シュクパチャンには、名前の由来となっている聖なる木シュクパ(*2)の林がある大きな農村だ。峠から村までの道は平易な下り道で足慣らしにはぴったり。乾燥した大地、黄金色に輝く麦畑と木々の緑、コントラストの美しい風景を見ながら歩く。到着した村のロッジはシンプルな造りで、部屋はベッドだけだが、温かなオーナー家族の笑顔とともに美味しい家庭料理を母屋でご馳走になり、つかの間の民家訪問を楽しんだ。

カラフルな褶曲地形

カラフルな褶曲地形

翌朝いよいよ本格的なトレッキングの開始だ。村を8時に出発。既に牛は草を食み、村人は畑で麦の収穫をしていた。歩き始めて30分程で風景が一気に荒涼としたものへと変わる。遠くから陽炎のように何かが近づいてくると思ったら隣村の男性だった。
「ジュレー!」ラダックで万能な挨拶をしてすれ違う。程なくして名も無き峠を越えると、そこはカラフルな褶曲地形の山々、むき出しの岩肌が目に飛び込んでくる。不思議な光景に魅せられて、自分が高所にいるのを忘れて踊りたくなった。

大地の嶺に立つ喜び

メプテクラ峠
メプテクラ峠

トレック・ルート上の最高地点メプテクラ峠(3,720m)に向かって伸びる最後の急勾配。「これでもBaby?!」と思わず口にしそうになる。空気の薄さも相まって、スキップしていける程さすがに甘くはない。それでも足を前に出せば、前には進む。無事に30分後、峠に到着した。
朝、遠くに見えていた峰々と同じ目線の高さに自分がいる。雲がどんどん流れていく。山に降り注ぐ光が雲の流れとともに移動し、山の色の濃淡が変わっていく。体の奥底から湧き上がる喜び、両拳を空に突き上げて叫びたくなるような高揚感。細胞が活性化していくのが分かる。心地良さで思わず頬がゆるむ。後から到着したフランス人トレッカーと旧知の仲のように談笑する。皆、世界の覇者になったような気分なのか、ご機嫌だ。

野生動物がよく出現する
スポット(写真はリダックス)
野生動物がよく出現するスポット
(写真はリダックス)

峠で簡単な昼食を取り、再び出発。メプテクラ峠を越えればティンモスガンまで比較的ゆるやかな下り道が続く。
メプテクラ峠~アン村の間の岩場の斜面は野生動物が多く見られるスポットで、今回も地元ではリダックス(山の主、の意)の名で知られる野生ヒツジ(*3)の群れを見ることができた。風のラダックの日本語ガイド・スタンジンの話によると、ブルーシープやアイベックスなど野生ヤギの仲間なども現れることがあるという。

過酷な大地だからこそ、生命が眩しく輝く

アン村の子供達
アン村の子供達

ラダックの大地を歩いて体感できるシャム・トレック。さすがに地元民でない限りBaby(赤ちゃん)級とはいわないだろうが、高所順応をしていれば初心者でも楽しめるという意味で、Baby♪と呼んでもいいかもしれない。ちなみにそれでもトレッキング・シューズ着用は必須。服装も山用装備を整えた方が快適だ。
ティンモスガンで滞在したホテルは前晩のロッジとは趣が変わり、村一番の宿で、周りは麦畑と雰囲気も良く、部屋にはふかふかベッドとホットシャワー! 運動後の心地よさを損なわず、快適に滞在させてくれた。数種類の杏の木が植わっている中庭で、チャイを飲み、トレックの余韻に浸りながら、スタンジンとラダックの旅について長々と語り合った。

谷間に細く伸びるティンモスガン村
谷間に細く伸びるティンモスガン村

ラダックの自然は過酷だ。冬は長く、人が住める場所も限られている。実際歩いてみると難しくないトレック・ルートでも、歩き始める前は、その荒涼とした風景から「ここ、歩くの?歩けるの?」と思うかもしれない。
けれど、厳しい自然の中に身をおいているからこそ、感じられるものもたくさんある。今回も道端に生えている草花が発する生命エネルギーに感動せずにはいられなかったし、水あるところに命が宿る、そんな普段気にも留めていない、当たり前のように思っていることが、実はとんでもなくすごいことなのだと改めて理解することができた。
大自然に身をおくことは怖いことではない。きちんと準備をし、大地がその場にいることを許してくれれば、他の場所では味わえないような、小躍りしたくなるような素晴らしい瞬間にきっと巡りあえる。生命が眩しく輝いて見えるラダックの大地に立ち、心揺さぶられる瞬間に皆さんも出会ってほしい。心からそう思う。

(*1)ラは峠の意。本来はサルマンチャン峠が正しいが、本文では全て~ラ峠とする。
(*2)ヒノキ科。ジュニパー、セイヨウネズ
(*3)ラダック、北パキスタン、カシミール地方などに生息する。Ladakh Urial (Ovis orientalis vignei)

風通信」47号(2013年4月発行)より転載


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