五体投地の写真は撮ってもいいのか? [LHASA・TIBET]

答えは “Yes” AND “No”!

つまり条件つきならよい、それを満たさなかったら絶対撮ってはダメ。 

その条件というのは、まず写真を撮ってもいいか尋ねること(ジェスチャー可)。 オッケーがでたら撮ってもよい。 オッケーが出なかったらあきらめること。

そんな至近距離で撮らなくてもよいというのなら、例えばジョカン正面を全体撮る感じで、五体投地をしている人たち大勢をなんとなくレンズに入れるならいいかも。

「超」望遠カメラで隠れて撮るという手もあるが、僕は個人的にはすすめない。

チベット人の間では、特におじいちゃん・おばあちゃんの間で、写真に撮られることを極度に嫌がる人は決して少なくない。 一昔前の日本でも「魂を抜かれるから」と写真を撮られるのを嫌うおじいちゃんおばあちゃんたちはいたが、それと似たような理屈がチベット人の間にもある。 写真を撮られると、「(今まで積んできた)福徳が取られてしまう・なくなってしまう」(チベット語で「ソナム・ニャム」)という考えがあるのだ。

結局は写真を撮る人の価値観によるかもしれない。 
つまり、「祈り」というものを当人がどうとらえているか。
「祈り」を握手やお辞儀のように単なる「習慣」のように捉えている人には、「別に写真を撮ってもええやんか」という話になるだろう。 ジョカン寺の前で、あの全身を使ってのスクワットにも似た五体投地は、修行者や信心深い人なら十万回から二十万回やられるのが常だ。 これは習慣と呼べるだろうか?

線の引き方は難しい。 写真を撮るとき、チベットに限らず僕も迷うことがよくある。 撮っていいものか悪いものか。 習慣を越える行為だからこそ写真の撮りがいがある、という議論も分からないでもない。 でも一度立ち止まって考えてみるのもいいかもしれない。 去年チベットに来た日本人の観光客は8万人で外国人の中では最多。 撮るなら「それなりの自覚と責任を持って」撮ってみたい。

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(ジョカン前にて)

Daisuke Murakami

PS I’m a new soul I came to this strange word hoping to learn a bit about how to give and take… ♪ (‘New Soul’ by Yael Naim) 
最近ご飯の後には必ず、珈琲を飲みながらこの曲を大音響で聴くのが習慣になってきた。 日本ではMacの宣伝に使われているらしいが、この底なしのハッピーなリズムがとっても素敵だ。 歌詞もよい。 へんてこりんだらけのこの世に出てきたばかりの新しい魂のぎこちなさを歌っているが、逆に言うと、世の中のへんてこりんさを常に感じるのが、魂が新しい証拠なのかもしれない。
(この曲のプロモーションビデオ、YouTubeで聴けるよ)

2月28日
(ラサの)天気 くもりのち晴れ
(ラサの)気温 −6〜13度 
(ラサでの)服装 ジャンパー、コート、長ズボンが一般的です。日焼け対策は必須。 空気も非常に乾燥しています。