第7回●「パンゲン・メト」草原の宝石

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

パンゲン・メト

メンツィカン(チベット医学暦法大学)のヒマラヤ山中での薬草採取実習の 4日目。びしょ濡れのままトラックの荷台に押し込められた40人の実習生達には重い雰囲気が立ち込めていた。連日の雨で体力の消耗が激しく、前日に生徒の一人が崖から転落し病院に運ばれていたことも皆をどこかしら不安にさせていたようだ。そんな時、ムードメーカーのペンパが突然、歌いはじめた。しかし、一曲歌い終わっても誰も反応しない。
「おいおい、どうしたんだよ。元気出せよ!」と叫ぶと、また歌いだした。そして、一人、また一人と一緒に歌い始め、奴隷列車は一転して遠足バスへと生まれ変わったのであった。僕はこんな人間を心から尊敬する。
「さあ、次はいよいよ、オガワの十八番、パンゲン・メトだぞ」 みんなの視線が僕に集中する。僕は照れを隠すためにも、わざと少し乱暴に声を張り上げて歌いだした。

♪白い雪山が水晶の羽のように
 遥か遠くまで拡がり、
 幸せな時代の到来を告げている。
 この世界を美しく飾ってくれるパンゲン・メト。
 ああ、私たちのふるさと、私たちのふるさと
 (訳:小川康)

薬草(ギャプー・ヒメハギの仲間)を 採取した後のトラックの中にて

パンゲン・メト、日本語に訳すと「草原の宝石」という花は、その名の通り、宝石によって人が美しく生まれ変わるように、チベットの広大な草原を美しいアクセントのある絵画へと変えてしまう。ヒマラヤ山脈を挟んで北側のチベット本土には、もちろんたくさん生えているものの、南側のインド・ネパールにはあまり生えていない。だからインド・ネパール生まれのチベット難民2世はこのまだ見ぬ薬草に想い憧れ、本土から亡命してきたチベット人はその美しさを彼らに自慢げに語る。本土生まれと本土を知らない難民2世との間の隔絶という、チベット人の悲しくも厳しい過去と現実が映し出されてしまう象徴の花というと少し考えすぎだろうか。そして亡命政府、ダラムサラの大学に所属している僕もインド生まれのチベット人同様、長い間、パンゲン・メトに憧れ続けていた一人である。

パンゲン・カルポ・デウェー・ツェパ・ジョム
  白いパンゲン・メトは喉の熱を取り去る
  四部医典論説部第20章

リンドウ科に属するこの苦い薬草は主に、喉に症状がでる風邪に処方され、日本では同科のゲンチアナが大田胃酸を初めとした胃薬に処方されている。
2004年8月、大学を休学したことが切っ掛けで実現したチベット旅行ラサ・ガンデン寺において僕はこの憧れの薬草に初めて出会うことができた(第五回ツェドゥム参照)。
しかし出会いの感動は思いのほか小さく、逆に僕の心はヒマラヤを越えてマナリーへと飛んでいった。今ごろみんなは薬草実習で山々を駆け巡っているだろう。またトラックに揺られながらみんなとパンゲン・メトを歌いたい・・・。

2007年3月24日学園祭(左端、筆者) 

思えば大学に入学して初めての学園祭でパンゲン・メトを熱唱して大観衆を驚かせたものだった。その昔、合唱団に属していたこともあるくらい歌が大好きな僕は、メンツィカン入学前にチベット舞踊団に通って個人レッスンを受けていたことがある。次から次へとメドレー形式で感情を込めながらチベットの歌を歌う外国人がよほど珍しかったのだろう、翌日、大学の周りを歩いていると小さな子供たちが足元に寄ってきて「パンゲン・メトを歌って、歌って」とせがんでくる。時には感情を大げさに表現する僕の物まねをしている子供もいる。もしかしたら20年後にはこんな会話がダラムサラでされているかもしれない。
「こんにちは日本の方ですか。そういえば私が小さい頃、チベットの歌をもの凄く大袈裟に歌う日本人がいましたよ。名前はなんだっけ、オガバとかいったかな」
「あーそうですか。で、その日本人は何してた人ですか?」
「さあ・・・?チベットの歌を勉強してたんじゃないですか」
また、チベットの歌の神様タントン・ゲルポ(14世紀。チベットオペラの創始者)は実は薬の神様としても崇められていることは医学関係者以外あまり知られていない。その名もタントン丸(通称リルカル)は時を越えて今でも汎用されている名薬である。僕と神様を同列に並べるのは失礼とは承知の上で、もしかしたらタントン様も薬草実習や学園祭で歌を熱唱しすぎたあまり医学のイメージが薄れてしまったのかもという空想がよぎる。いずれにしても、オガワでもオバワでもいい、こんな日本人がメンツィカンにいたという記憶がチベット人の心の中に強く刻み込まれたならば、それはきっと僕を美しく着飾ってくれた「草原の宝石」のおかげなのは間違いないと感謝している。
パンゲン・メトは薬草としてだけではなく歌として処方しても素敵な効果が現れる。きっと現代の科学レベルでは分離精製できない特殊なビタミンS(Song)がたっぷりと含まれているのではないかと僕は推察している。

[参考]
神戸・長田の「FMわいわい」でチベット音楽を聴くことができます。 このエッセーにあわせてパンゲン・メトを流してくれるとのことです。
是非お聴きください。
インターネット配信もしています。
FMわいわい 毎週日曜(毎月第2日曜を除く)11:00〜
ヒマラヤ、チベットの音楽「タシデレ・フロム神戸」
(DJ:アモン)

小川 康 プロフィール