第10回●「クムタ」ナイト・ジャスミン

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

クムタ (薬用には用いられない)

6,7月の夜、大学は白い花クムタ(ナス科)の香りに満たされる。クムタは昔からチベットの詩や経典の中に芳香の代名詞として頻繁に登場するもののチベット本土には生えていないため、“クムタとはどんなに素敵で貴重な花なのか”と文学者たちは長年に渡って想いを巡らせていたという。そしてインドに亡命することによって初めて出会うことになるのだが、意外にも普通 に道端に生えているのでがっかりしたという話を聞いたことがある。


日中は花を閉じ、夜になると開花して濃厚な芳香を振りまくことから夜香花(やこうか)という和名とともに“ナイト・ジャスミン”“ナイト・クイーン”という愛称でも親しまれている。その香りと共に構内に響き渡るのは生徒たちの四部医典(チベット医学教典)を音読する声。いまから7年前の1999年、はじめてダラムサラを訪れた時、視覚、聴覚、そして嗅覚の三重奏によって演出される幻想的な光景に心奪われたものであったが、まさか今こうして演出する側に自分がいようとはあの時の自分には想像もできなかっただろう。夜の7時半から1時間、生徒全員で声を揃えて教典を音読する時間は、元合唱団員の僕がもっとも楽しみにしている一時でもある。夜、生徒たちの音読に耳を傾けながら大学職員の間では「今年の新入生は丁寧に読んでいて好感が持てるな」などと評価が持ち上がる。

2007年度新入生の音読 (写真提供 七沢英文様)

音読が終わり清々しい充実感に包まれていたある夜、僕は教典を片手に抱えて勉強するふりをしながら、さりげなく大学構内から抜け出した。門限の夜7時以降は外出が厳しく禁じられており見つかれば60ルピーの罰金、及び掲示板で告知されることになる。
大学の周辺は小さな集落のようになっているため、先生などに顔を知られないように少し俯きかげんで歩かなくてはいけないが、5分もすると街灯すらない真っ暗な道に入って一安心する。夜空には満点の星空、山の稜線には満月が煌々と輝いている。ダラムサラも随分と近代化されたとはいえ、こうして久しぶりに夜道を歩いてみると、まだまだ大自然の懐の中で生きていることを実感させられる。なによりも道路の両側を蛍が一面にライトアップしてくれその輪郭が浮かび上がっている。しかしチベット人には蛍を愛でる習慣はないのは何とももったいない。
ゆっくりと20分ほど歩いただろうか、暗闇に電灯が灯っているのを発見するとプチ脱走が無駄 足でなかったことにホッとし、歩みを止めた。
「ハロー、サー」インド人のおじさんが僕に気がつくと満面の笑顔で立ち上がり「チャイ?イエス?」と確認しながらコンロの前に立って調理を始めた。人里離れた道端にポツンと佇むこの小さな食堂を僕はとても気に入っている。僕は薄暗い電球の下で教典を開いて勉強し、その目と鼻の先ではおじさんがチャイ(ミルクティー)を作ってくれている。厳しい校則の反動なのか、こうしていると全く違う世界に迷い込んでしまったかのように感じ、最高の気分転換にもなっている。いや、むしろ普段の生活が制約されているからこそ、この1時間のプチ脱走が輝いてくるのかもしれない。

夜のメンツィーカン

夜9時半ごろに何事もなかったかのように大学に戻ると、街灯の下で同級生が暗誦に励んでいる。
「オガワ、どこまで進んでいる?」
「まだまだたくさん残っているよ。いまルンの章の暗誦をやっと終えたところなんだ」  
顔を会わせれば挨拶代わりにこんな会話が頻繁に交わされるようになる。みなそれぞれが自分の暗誦場所をもっており、お互いが絶妙の距離感を保っている。博物館の入り口の街灯、渡り廊下、教室、屋上、食堂の前、自分のベッドの上・・・。
部屋に戻ってしばらくするとルームメイトの一人が戻ってきた。
「あーあ、暗誦なんて全く無意味な作業だよな。そう思わないかオガワ」
彼は毎日、この時間に僕に向かって、このセリフを吐くのが日課になっている。続けて大学への不満を15分ほど弁論すると満足したのか、ダライ・ラマ法王の写 真に向けて五体投地を三回すると「オガワ、部屋の電気を消すぞ。電気スタンドを点けろよ」と言ってさっさと寝てしまう。暗くなった部屋に、しばらくして別 のルームメイトが戻ってきた。彼はベッドの上で30分ほど解説書を読んで復習をすると、やはり彼も五体投地をしてから眠りに入る。横になると、まだ勉強している僕に向かって話しかけてきた。
「昨日、テレビで『ラスト サムライ』を見たけれど、あれは実話なのか?」
11時になると最後の一人が戻ってくる。彼は同級生の彼女と一緒に教室で勉強している。彼が布団に入ってしばらくして、僕も横になる。手を伸ばして電気スタンドを消すと部屋は真っ暗になり、かすかなイビキがハーモニーを奏でる。
こんな寮生活から逃げ出したいと思ったこともあるが、今はこの人と人との距離感が心地よく、そう感じられるようになった自分に密かに満足している。

小川 康 プロフィール