第16回●「アル・パル・キュル」究極の秘薬

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

アルラ(上)、パルラ(左)、キュルラ(右)

いよいよ二度目の暗誦試験が迫った2003年大学2年生の秋、四部医典論説部・老化防止の章の解説中に長身のダクパ先生が回想しながら呟いた。
「この章に登場する秘薬・三果薬用バターを10年も前にラマ(高僧)に頼まれて作ったことがあったが、あれは美味しかったなあ。でも作るのが面 倒だから今では誰も作っていないだろう」

アル・パル・キュル・デプー・メンマル・ギ・ワンポ・セルシン・トプゲー・ゲーカ・サ アルラ・パルラ・キュルラからなる三果薬用バターは感覚を明晰にし、体力を増進させ、老化を防止する
四部医典論説部第23章

アルラ(日本名・詞子[カシ])、パルラ(毛詞子)、キュルラ(余甘子[よかんし])というインド特産の三つの果 実は、チベット医学において最高の果実として崇められ多くの処方の基礎になっている。またシルクロードを渡って奈良の正倉院にも納められている歴史的な生薬でもある。
この授業中、誰しもがこの秘薬を作ってみたいと思ったようだ。しかし、現在のメンツィカンの状況では正式な製薬実習としてお願いしても却下されるのは眼に見えている。だから僕が「薬用バターを今度の日曜日に作ろうよ。費用は僕が出すから」と提案した時、多くの生徒は「そんなことができるはずがない」と疑心暗鬼だったのは無理もないと思っている。もっとも最初、普段親しいジグメと数名の友人に声を掛けて、5,6名が参加してくれればいいや、くらいの軽い気持だったのだが、気がついてみると級長が音頭を取っていてクラスの一大事業に発展していた。いつ大学からストップの声が掛かるか分からないし、客観的に見れば生徒たちの抗議行動とも取られる。だから準備は慎重に、先生方を一人一人訪ねて「力を貸してください」と頭を下げてまわった。
ただ、今でこそ告白するならば、あの時、大学生活にとことん疲れ切っていて、もう日本に帰ろうかどうか真剣に悩んでいた。厳しい寮の規則(第10話参)に耐えられず無断外泊を繰り返し何度も警告を受けていた。また昨年の暗誦はクリアできたけれど(第14話参)今年の膨大な課題はとてもできそうにない。だからもう先のことをあまり考えず、最後にやりたいことを思い切ってやろう、というヤケクソな気持が動機だったとはみんな知る由も無かっただろう。

薬用バターを丸薬状に しているところ

準備は意外なほど順調に進み、薬草を購入し、製薬工場から道具一式を借り、食堂からガスとコンロを借りる過程も無事にクリアできた。そして10月11日土曜日の夜8時、休日のはずなのに突如、教室からお祈りの声が構内に響き渡り、史上初めて、生徒の生徒による生徒のための製薬実習が幕を開けた。ほんとうに自分たちが秘薬を完成させることができるのかという不安を打ち消すために、みんな必死に祈っている。祈りの力が込められていく。勇気という名の祈りが込められていく。選別、粉砕、煮る、濾す、など具体的な作業に入ると、まるでみんな子供のように活き活きと楽しんでいる。楽しさが込められていく。草に楽しさが込められて薬に生まれ変わっていく。これが僕のやりたかったことなんだ!これがチベット医学の真髄なんだ!僕は興奮とともに、この大学で彼らと一緒に学べる幸せを噛み締めていた。

製薬工場のベテラン、タエー先生による指導

土曜の夜に下準備をした後、日曜日に本格的な作業に入ったものの、先生の記憶が曖昧だったせいもあり一度ならずニ度までも失敗し、薬草を買いなおして再度チャレンジ。先生方も授業を休校にしてくれる有難い配慮、また普段は接することが無い製薬工場のベテランが駆けつけてくれるなど大学全体を巻き込んだ薬用バター一大事件は、火曜日の朝、秘薬の完成によって幕を閉じた。
ほんのり甘く、舌の上で一点の曇りもなく溶けていく薬用バターには若返りとともに記憶力を高める効能が記されている。それからというもの僕は毎朝、薬用バターを服用しつつ暗誦のラストスパートに入った。そして残り一ヶ月を切って奇跡が起きた。それはもしかしたら秘薬に込められたみんなの勇気と楽しさによる効能なのかもしれない。11月27日、僕は制限時間ピッタリ75分で論説部第12章から31章までの暗誦を終えることができたのである。
試験を終えると外で多くの同級生たちが待っていてくれた。「オガワ、凄いじゃないか!」まるで自分のことのように喜んでくれる彼ら一人一人と握手をしながら、もう少し頑張れる、そんな漠然とした思いが湧き上がってきたのを覚えている。そして、きっと彼らは僕の心の内を知っていたんだと、そのときになってようやく気がつき涙がこぼれた。

補足:現在、医学・製薬実習を充実させるため、新しい医学大学の建設が進んでいます。秘薬の製造の基礎は、以前風カルチャークラブの講座(「my薬草茶」)にてご紹介しました。

小川 康 プロフィール