第32回●「ケルパ」世界の医学史

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

ケルパ ヒイラギの仲間にあたる。開花は4月

1999年、初めてダラムサラに到着して間もなく、道端に真っ黄色の樹皮が剥きだしになっているのを見つけて「ここにも黄檗(オウバク)が生えているのか」と懐かしさが込み上げてきた。黄檗の樹皮にはベルベリンという黄色の薬用成分が含まれており、現代薬においても下痢止め薬や目薬に配合されている。少し時代をさかのぼると陀羅尼助や百草丸という伝統的和漢薬の主成分になっており、さらには縄文時代の遺跡から黄檗が発見されたことからも分かるように黄檗は日本の薬の歴史を語る上で欠かすことのできないキーポイントとなっている。個人的にもその昔、百草丸を愛用し、また黄檗を畑に蒔いて農薬効果を調べたことがある馴染み深い薬草である。
しかし、残念ながら、道端の低木は黄檗ではなく、同じ有効成分を含むケルパ(日本名・メギ)であることが後日、判明した。ケルパも熱病や糖尿病に効果があるチベット薬に汎用されている。また現地のインド人も日常的に薬として用いていることから、ベルベリンは世界各地において薬の歴史の中核を担ってきた成分なのではないかと推察している。事実、その黄色い樹皮を口に含んでみれば“良薬口に苦し”の語源がここにあるではと思わされる懐かしい苦味に包まれる。

ケルペー・キャンダ・ヌショ・ダンジャル・チュク
(涙目には)ケルパの濃縮液と母乳と蜂蜜を練って眼に塗りなさい。
四部医典秘訣部第29章

製薬実習でケルパ濃縮液を 製薬しているところ

ケルパとともに用いられる母乳には実際、優れた抗菌作用があり、日本においても江戸時代までは母乳が眼病治療に用いられていたことを考えると、その医療の原点はチベット医学にあったのではという空想が駆けめぐる。そのほか、現代社会との共通項は意外にもたくさん見つけられる。
“麻黄は血を切り、肝臓の熱を鎮める。(論説部20章)”の麻黄から喘息薬のエフェドリンが発見されたことは第5話ですでに解説したが、“血を切る”という教典中の記述どおり現代の傷口治療薬にも用いられている。
“黄色亜鉛は傷を癒し、眼に効果がある(同上)”の記述にある亜鉛は目薬の元祖である大学目薬(参天製薬)の有効成分であり、その効能が太古から連綿と受け継がれてきたことは驚きに値する。
“大根の汁を鼻に入れると、耳と頭の病に効果がある(結尾部第16章)”おばあちゃんの知恵として知られている療法がすでに太古の教典に記されていたとは興味深い。
さらに“胃と腸が冷えたならば手を当てなさい(結尾部第22章)”という記述はまさしく「手当て」の原点であろう。“シャックリを止めるには、そっと近づいて驚かせなさい(秘訣部第47章)”は薬師如来のささやかな遊び心から生まれたのかも。“心臓病の際は、女性(異性)の言葉に耳を傾けず、余計な発言を控えなさい(秘訣部第34章)”からは古今東西共通の悩み事がうかがい知ることができる。
世界に目を向けて時代をさかのぼると、ラピスラズリを崇める記述(第23話参)はメソポタミア文明の横軸と交錯し、生理学である体液論はヒポクラテスの時代と重なり、病を癒す呪文はサンスクリット語で発音される。鉛を用いる傷薬はサムライの刀傷にも用いられ、医者の倫理観はチベット仏教を基本に説かれている。さらに、ルン(気)という名のもとに骨、すなわちカルシウムと神経の関係に気がついていたということは19世紀後半の科学レベルも含まれている。
四部医典(第14話参)を暗誦していると世界のあらゆる地域、時代を旅することができる。脈診で(第30話参)精神集中していると、ふと江戸時代の薬師(くすし)になったような錯覚に襲われる。近い将来、チベット医学を舞台にして「医学史」を日本の学生に教えられないかと思ったのはそんな空想中だった。

問題 ケルパ、亜鉛、母乳が眼に効果があると、最初にどのように知見を得たのか、具体的な事例をそれぞれシュミレーションしなさい。ただし神様、宇宙人の登場は不可。

過去の抽象的な記述を今に蘇らせ、未来へと具体的に活かしていく。考えるという力を養う。土の匂い、草の香りが蘇ってくる。もしかしたらチベット医学は現代医学が忘れ去ってしまった大事な宝物を思い出させるために、大昔に薬師如来が封印した埋蔵経なのかもしれない。それを発見する大切な鍵の一つとして黄色いベルベリンをお創りになられ、ケルパや黄檗を世界中に植えられたとは考えられないだろうか。


ケルパの黄色い樹皮

秋にはブルーベリーのような実をつける。
食用可


参考 日本の伝承薬 鈴木昶 薬事日報社
   薬の文化誌 松井壽一 丸善ライブラリー

小川 康 プロフィール

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