第38回●「ニェパ」三体液

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

チベット医学タンカ『身体構成の木』 左の幹が三体液正常の状態、 右が異常の状態を表している。

“ニェパ”
 血で描かれた赤い文字はそこで途絶えていた。死ぬ間際に最後の力を振り絞ったのであろう、パの最後の丸は閉じられることなく未完成のままだった。被害者は4×歳の男性会社員。口から大量の血を吐いて途絶えている死体を凄腕の刑事たちが取り囲んでいた。
「ひでえな、こりゃ。恐らく指先に残した最後のメッセージが犯人の名前か、それに繋がる手がかりになるに違いない。いったいどこの国の言葉だ?もしかしたら背後に大きな外国人組織が隠れているかもしれんぞ。山さん、早速あたってみてくれ」

        *     *     *

「ボス、重要な情報が得られました。ニェパというのはチベット語で『罰』という意味です。どうやらニェパは3人のチベット人によって構成される組織で、被害者は恐らくこの組織に関わっていたと思われます。ご覧下さい、木の葉の形で描かれたニェパの緻密な組織図が発見されました」
「『罰』というチベット密売組織か。いやらしいネーミングだな。それにこの組織図によるとかなり複雑に社会に入り込んでそうだな。それで、3人の足取りはつかめているのか?」
「まず、組織の全容を明らかにするためにインド・ダラムサラにあるチベット亡命政府に電話をしました。あいにく声が遠いうえに、間にチベット語から英語、英語から日本語へと通訳が2人も入ったので、聞き取るのには苦労しましたが、おかげで3人の名前と特徴が割りだせました。3人の名前はルン・ティーパ・ベーケン。
ルン グループの親玉。体は小柄で痩せていて青白い。歌うのが大好きでカラオケが趣味。風のように落ち着かない性格。
ティーパ 火のような特攻隊長。虎のように怒りっぽく武闘派。中肉中背で汗っかき。黄色っぽい髪と皮膚。食欲旺盛。
ベーケン 水のように冷静沈着でグループの押さえ役。体は肥満で色白大柄。象のようにのんびりとした性格でお人好しだが、意外と根に持つ性格。(注1)

 こいつら普段はとてもいい奴らなんですが、何かの拍子で気が変わると人を殺めてしまうようです。また単独での犯行もあり、ルンは夜と梅雨の時期に、ティーパは昼と夏に、ベーケンは朝と春に、というように犯行時間と時季に特徴がみられます(注2)」
「ようし、ご苦労だった。すぐに全国に指名手配だ。長さんは組織の背後関係を調べるためにダラムサラへ飛び、山さんはルンが出没しそうなカラオケ屋をしらみ潰しに当たってくれ」

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「ボス、新たな情報が得られました。ルンにはニンニクのたっぷり入った豚骨スープ、ティーパにはタンポポと冷水、ベーケンには蜂蜜湯を与えると大人しくなるそうです(注3)。激しい抵抗をされたときのためにこれらを用意しておきましょう」
「豚骨スープにタンポポ、蜂蜜だと?山さん・・・本当にそいつらは殺人グループなのか?」
「そういわれると自信がなくなっちゃいますよ。なにしろ今までチベット人なんて見たこともありませ・・・」トゥルルルルル、トゥルルル。ガチャッ。
「はい、早都地利(はやとちり)署。えっ、ああ、死体の解剖結果がでましたか。それで直接の死因は? はあ、なに!チベット医学の本をよく読めだと。確かに被害者の引き出しにはチベットの丸薬がたくさん残されていましたがね。それとこれと何の関係が・・・ええ、・・・、わ、わかりました」
「ボ、ボス!何か確信的なことがわかったんですか」
「山さん、すまないが被害者の所有物からチベット医学という本を持ってきてくれないか」
「その本の中に、新たなメッセージが隠されているんですね。わかりました。・・・これです、ボス」
「その中の三体液という章を読んでくれ」
「は、はい・・・『チベット医学では体の三体液(チベット語でニェパ)のバランスが全ての生理や病理と関係していると考え、正常な時を正常・健康とし、異常の時を病気とみなします。三体液とはルン・ティーパ・ベーケンと呼ばれ、漢方の気血水にあたる概念です。ルン病は主に精神病、ティーパ病は主に熱病や肝臓病、ベーケン病は主に消化不良や膠原病が挙げられます。もっとも怖ろしいのは三つが同時に異常になるときでムックポと呼ばれ、これは現代医学で胃潰瘍にあたります』 ボス・・・・」
「死因は胃潰瘍ということだ」
「いまごろ長さんはエアーインディアの飛行機の中ですが、呼び戻しますか」
「もう遅い。また同様の事件が起こるかもしれんな。せっかくだからダラムサラでチベット医学を学んでくるといいだろう」

神秘に包まれたチベット医学。その存在を知る日本人は未だ限られている。

注1:三体液それぞれの体質を表している。
注2:三体液が優勢になる時間帯と時季を表している。
注3:三体液それぞれの病を癒す食事・薬の一例。

補足:体液理論と東洋医学

共通の根本理論である生理学に基づいて成り立っている医学を東洋医学とし
1:アーユルヴェーダ(インド) 2:中国医学
3:ユナニ医学(イスラム)   4:チベット医学
 これらを四大伝統東洋医学と称しています。中にはチベットを無視して三大伝統医学としてしまう学者もいますが、どうかチベットも仲間に入れてやってください。ではヨモギやドクダミを用いる民間療法は東洋医学なのかと問われるとNOとなります。東洋医学は理論の裏づけがあり、民間療法は漠然とした経験の積み重ねでしかない、というのが理由です。そもそも、東洋医学のアイデンティティーとなる東洋生理学というのはいったい何なのでしょうか。

「体液理論」 「陰陽二元論」 「五元素説」

 これらが共通の理論となります。もちろんその他にも細かな理論がありますが混乱を避けるためにも解りやすくこのあたりで纏めておきます。とはいえ、これでもまだピンとこないでしょうから、体液理論に限って詳しく表にしてみました。

 
チベット医学 ルン ティーパ ベーケン  
アーユルヴェーダ ヴァータ ピッタ カパ  
中国医学  
ユナニ医学 黒胆汁(憂鬱質) 黄胆汁(胆汁質) 粘液 多血

人間の体は三、または四体液から成り立っているとし、これで体質を分類して診断するのです。この中で見慣れた単語というと「気」がありますね。突き詰めて説明すると「気」という概念があるのが体液理論であり東洋医学であるといえます。

「陰陽」はよく耳にするのではないでしょうか。太陽と月、男と女、というように全ては二元論で成り立っているという理論です。

「五元素」というと「木・火・土・金・水」の五元素から宇宙、地球は成り立っているとし、人体も同じように五元素から成り立っているという理論です。こちらはあまり馴染みがないので、ここでの紹介に留めておきます。
 これら東洋医学理論は全て「現代科学では解明できない聖なる理論」として崇められています。

小川 康 プロフィール