第51回●「イチョウ」暗誦の力

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

イチョウ 撮影 東京都   イチョウはヒマラヤに生えておらず、 チベット医学にも登場しない。

2007年11月16日、メンツィカン(チベット医学暦法学大学)講堂。
静かに眼を閉じて息を整える。四方を取り囲む教職員、生徒たちのかすかなざわめきが心地よい緊張感を与えてくれている。いま、ここのために5年間頑張ってきた・・・。最後にもう一度大きく深呼吸して意を決すると、薬師如来への礼拝文を唱え、僕は果てしなく続く暗誦のスタートを切った・・・。

 究極の暗誦試験ギュースムへの挑戦(第24話参)からはや一年が経過した。あの頃は脈が乱れ心臓が止まりそうになるほど苦しかったにもかかわらず、こうして振り返ってみると痺れるような緊張感がいとおしく感じられるから思い出とは不思議なものだ。そもそも2004年、チベット医学に希望を見失い、大学を退学するかどうか真剣に悩んでいたとき僕の心を引きとめてくれたのも「円周率暗誦八万桁、世界記録更新。日本の58歳の男性Hさん」という暗誦に関する小さな新聞記事だった。暗誦だけは世界の誰にも負けたくない。そう心に灯が燈った瞬間、僕はふたたび四部医典を手にして暗誦の練習を始めていた。そう、ギュースムも偶然に八万音節なのである。それは休学中、京都の薬局でアルバイトをしていたときのことだった。そして記憶力を高めるというイチョウ葉の錠剤を社員割引で大量に買い込んだのを覚えている。普段、健康食品の類にはほとんど興味を示さない僕だけに、当時からすでに切迫していたことが推察できる。ギュースムの頂は並大抵の覚悟ではけっして手が届かない。

 暗誦というと「詰め込み」というマイナスのイメージが強いかもしれない。しかし、詰め込んだ状態からさらに何百回と暗誦を繰り返し体に染みこませることで新たな次元に到達することができる。なぜだろう、口が勝手に動きつつも、脳の片隅で小さい頃の出来事が走馬灯のように甦り、当時、気がつかなかったことに、はっと気がつかせられることがあるのだ。あのときの父の言葉、彼女が何気に呟いたあの言葉の本当の意味・・・。脳の奥深くに眠っていた記憶の引き出しが次々と開かれていく。そしてそんなときは疲労を感じないどころか、ランナーズハイの状態のようにこのまま永遠に暗誦を続けていたいという光悦感に浸ることができる。こうして脳の機能の限界に挑むことにより感覚を研ぎ澄まし、僕たちチベット医学生は真のチベット医・アムチへと生まれ変わっていくのだが、これこそまさに神秘と呼ぶに相応しい。

神秘、そう、チベット医学を含めた東洋医学は気や精神といった眼に見えない理論を唱え、過去の聖者の偉業を誇り、救世主のごとく外国に紹介される。しかし現代医学が抱えるとされる多くの諸問題が古代の文献によって解決できるほど事態は単純ではない。古代の抽象的な記述が具体的な力を持ちえるためには、並大抵ではない覚悟と努力を眼に見える形で積み重ねなければならないだろう。だからこそ、僕たちは膨大な量を暗誦し、生死をかけて薬草を採取し、厳しい寮生活を過ごさなければならない。架空の東洋医学の世界を、眼に見える現実の医学の世界へと取り戻し、まだ見ぬ未来において新しい医学を創造するために。チベット医学が日本のために何の役に立つというのか、と病気になるほど悩み休学したときの自分はもうここにはいない。ただ、ただ、暗誦の限界に挑んでみたい。その無謀かつ馬鹿げた挑戦こそが遠く離れた日本社会に、さざ波のように微かな影響を及ぼすかもしれないではないか。

暗誦も後半に入り、苦しそうな筆者。

そして4時間半を費やし、職員、同級生、後輩、日本の友人たちに見守られながら、息絶え絶えながらも完誦することができた自信と誇りは一年が経過した今になって顕在化してきている。なぜならば、診療に入ってみると、意外なほどにギュースムの称号は思わぬ呪術効果を生んでいるのである。大勢の人に見守られた誤魔化しがきかない環境での挑戦は確かな信頼を生みだす。なるほど暗誦とは社会全体の中で集合意識を高めて神秘的な呪力を生み出すのに優れていることを実感しているところである。そしてこの暗誦の文化が続く限り、どんなに科学の波が押し寄せても、チベット医学が廃れることはないだろう。暗誦をする民族は決して滅びない。暗誦という壮大なシステムを現代にまで受け継いできたチベット医学に出会えたことに心から感謝している。
 だから僕は日本に暗誦という素晴らしい文化を伝えたいと思っている。そのためにはまず自分自身がこれからも最高の暗誦家であり、チベット医学の語り部でなくてはいけない。僕の暗誦への挑戦はまだ終わっていない。そうか、日本に帰ったらまたイチョウの錠剤を買い込まねばならないようだ。

注意:イチョウの葉には僅かながら毒性があるので、市販の商品を用いる以外、生の葉を薬用にすることは控えてください。

小川 康 プロフィール