第69回●メンペー・ヘンゾム ~アムチ合同会議~

小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

tibet_ogawa069_1アムチ合同会議の休憩時間

『シュクドゥ・アムチ・タラ・ション/ギューシ・アムチ・ニンマ・ラ・ドゥ』
(意:世襲アムチは馬に乗って先に進んでいき、教典アムチは日向ぼっこでのんびりしている)

こんな自虐的な諺が同級生の間で流行したことがある。世襲アムチ、つまり地域に根ざす代々チベット医の家系では、教典『四部医典』を突き詰めて学ばないが一子相伝のごとく施術を小さいころから学んでいる。それに対して我々、メンツィカン(チベット医学暦法大学)の学生は重箱の隅を突くごとく教典を学ぶが施術を学ぶ機会は比較すると少ない。

「こうして教典を暗誦し試験勉強に時間を費やしている間にも、どんどん世襲アムチは患者を施術しながら経験を積んでいっている。教室で教典とばかり向き合っていて俺たちはいいのか!」
もちろんその叫びは試験がもたらすストレスにも一因があるだろうし、事実、この僕がそうだった。それくらいメンツィカンの試験勉強、暗誦試験の過酷さは常軌を逸しており、時に民衆から「ニョンバ(狂気)」とまで評されることがある。

そんな教典アムチと、前述の世襲アムチは教育の過程に著しい違いがありながら同じ「アムチ」として一括りにされる。そしてお互いの長所を認め合う一方で、お互いの短所、つまり方や「教典を知らない」、方や「実践不足」として牽制しあうことも稀にある。

そうして交わることのなかった二つのアムチが一同に会し、お互いの足りないところを補いながらチベット医学を発展させようという組織がチベット亡命政府厚生省の管轄下において新たに結成された。それがメンペー・ヘンゾム(アムチ合同会議)である。その第2回会議が2010年3月15日から3日間に渡ってダラムサラで開催され、アムチ小川も日本代表(自称)として出席した。

とはいえ、多彩な顔ぶれに興味津々の僕は、会議そっちのけで早速、左隣の青年に話しかけた。

「あのー、どちらからいらしたんですか」
「私はネパール・ジョムソンという村に13代も続いているアムチの家系のものです。いまはインド・ダージリンにあるチャクポリ医学院で学んでいますが、卒業したら故郷に戻って家を継ぎます。あなたは?え・・・、日本人。そうですか、じゃあ私の病院を支援していただいたAさんをご存知ですか。よろしくお伝えください」
颯爽とチュパ(チベット民族衣装)に身を包む彼からは世襲だからゆえの誇り高さが伝わってくる。チャクポリ医学院は1992年に創立され、僧侶や尼僧、アムチの子息を積極的に受け入れていることがメンツィカンとの大きな違いである。彼のように世襲でありながら学校で教典をしっかりと学び、そして村へ戻っていくことはアムチとして一番の理想であろう。

次に右隣のジャケットを羽織ったイケメン系の兄さんに話かける。
「私はインド・バラナシにあるアーユルヴェーダ・チベット医学大学の卒業生で、いまも大学院で研究を続けています」
こちらは名称からも分かるようにインド伝統医学と対照しながら学ぶことが大きな特徴でサンスクリット語が必修とされている。チベット医学の母であるアーユルヴェーダを学ぶことでより原理的、かつ学術的に深めることが可能である。

「(声をひそめながら)ところで、2つ前の席に座ってらっしゃるお坊さんはどなたですか」
「よく分かりませんが、袈裟の下に青い服を着ておられるので、どこぞのボン教の偉いお医者さんでしょう」
ボン教とは仏教が伝来する以前からチベットに存在した宗教で、よく日本の神道に喩えられる。ボン教には『四部医典』に似た『ソーリク・ブンシ』と呼ばれる独自の医学教典が存在し、時に我こそがチベット医学の原始であると主張することがある。ボン教に伝わる独自の施術法もあるらしい。そして世襲アムチにはボン教の流れを汲む人が比較的多いという。

「おう!オガワ。元気か」
休憩時間に元気よく握手をしてきたのはインドの中央部ハイダラバードという大都市の分院で働いている同級生のゴンポ。
「ここはインドで、いやもしかしたら世界で一番、糖尿病患者の比率が多い都市かもしれない。そこで俺は貴重な経験を積んでいるよ。何人かのインド人患者は血糖値が下がり、西洋薬は止めてチベット薬だけを服用しているんだ」
「じゃあ、キュル六味丸やユンワ四味丸を処方しているのか」
「オガワ、お前はまだまだ甘いな。俺は独自の組み合わせで治療しているんだ。そんな教科書どおりの処方じゃ治せないぞ。一度、見学に来いよ」
学生時代から自信家の彼だったが、医者としてそれは有利に働いたようだ。多くのインド人患者を前にして堂々と診察している様子が眼に浮かぶ。

その他、デリー、ムンバイ、カルカッタ、バンガロールなどインドの主要都市にはメンツィカンの分院があり、多くのインド人患者がやってきている。難民であり異民族であり、異教徒でありながらこんなにも受け入れられているこの結果こそ、我々、教典アムチの一番の長所であり特色であろう。

ヒマラヤの村々に根付く世襲アムチの草の根的な活動はある意味分かりやすい。一方で、どうしてメンツィカンの教典アムチがインドの都市部に受け入れられたのか。そこにチベット医学のまだ知られざる可能性と、さらにはやはり異民族である日本に対し、典型的な教典アムチでもある僕がどのようにチベット医学を活かしていくのかへの答えが隠されているような気がしている。いままではチベット人の街ダラムサラでしか研修したことがなかったけれど、今度はハイダラバードへ行ってみるとするか。さあ、日向ぼっこはこれくらいにして馬に乗って先に進まねば。

tibet_ogawa069_2久しぶりに再会した同級生たちと
メンツィカン構内にて



<所属するアムチの内訳>

   メンツィカン所属                           127名
   メンツィカンを卒業しプライベートで活動               56名  ※小川はここに分類される
   ラダック仏教医学院所属                       10名 
   チャクポリ医学院所属                         22名
   バラナシ医学院所属                         24名
   その他、ヒマラヤで活動するアムチ(いわゆる世襲アムチ)  136名

   合計                                  375名

参考:

アムチ合同会議の正式名称は The Central Council of Tibetan Medicine
(HP)http://tibmedcouncil.org/legal_act_n_regulations.html

ラダック仏教医学院については『飯田泰也のラダック駐在日記 峠を越えてラダックへ』でも紹介しております。
第4話 アムチ・ティンレー・ヤルジョル先生
第7話 授業参観