第89回●ティマ  ~ダラムサラの匂い~

小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

tibet_ogawa089_1燻香で煙るお寺・ダラムサラ

1999年1月12日、デリーから北へ500キロメート ル、朝霧で覆われたダラムサラにはじめて到着したときのこと。西ヒマラヤ・ダウラール山脈の麓、標高が1,800メートルもあるせいかかなり肌寒く感じる。と同時に街の匂いに懐かしいものを感じて心が安らいだものだった。デリーの排気ガスが混ざった“混沌”と名付けたいような匂いに対し、こちらは、高原の清浄な空気をベースにした甘酸っぱい匂いとでも言おうか。この柔らかく穏やかな街ならば長く住めるかも、と直感が働いたのは決して誇張ではない。そうして、はじめての海外滞在生活に新鮮な感動を覚えつつ、あっという間に月日は過ぎ去っていった。それにつれて街の匂いを感じなくなっていたのは、ダラムサラが自分の街になりつつあることを意味していたのだろう。

僕の思い出のアルバム検索方法には、色、形、音楽、感情、のほかに匂い(ティマ)がある。稲刈りの終わったあとの藁の香りは故郷・富山の、セメンダインに似た有機溶媒の匂いは東北大学薬学部の研究室の思い出。磯の香りは佐渡ヶ島の自然学園。薬草を焙煎する香ばしい匂いは長野の薬草会社の時代に連れ戻してくれる。堆肥の匂いは長野の農場。そして、汗とカビが入り混じった匂いはメンツィカン時代の男性寮だ。そんな男臭い匂いがきつい時は、お香を強く焚いて誤魔化すことがよくあった。ちなみに部屋でルームメイトが不自然に突然、お香を焚いたときは、透かし屁をこいた疑いが非常に強い。かくいう自分がそうしていたのだから間違いない。授業中に隣の製薬工場から薬草の香りが漂ってくると先生が「これは何の薬草の匂いか分かるかな?」と問題を出して学生たちを試してくる。特にシンクン(日本名・阿魏)と呼ばれる樹脂の香りは強烈だった。そういえば全盲の日本人のお客さんのガイドを務めたとき、製薬工場から漂う薬草の香りのおかげで話が盛り上がったものだった(第40話)

tibet_ogawa089_2ダライラマをお迎えするために整列している生徒たち

クムタという夜香花の香りに学内が包まれるとそろそろ夜の読経がはじまることを(第10話)、道で薫香の煙たい香りがすると、もうすぐダライラマ法王が通られることを教えてくれた。
ヒマラヤ薬草実習の際にも匂いは重要なポイントとなる。タンクン(第4話)という薬草の場合は、まず、茎の色の微妙な違い、茎を折った時の「ポキッ」という音。さらに匂い、というふうに五感を総動員して判別しなくてはならない。ちなみに、その昔、薬草鑑別試験では目隠しをして匂いだけでの勝負方法もあったと伝え聞く。

チベット医学教典・四部医典の中の養生法の章には「春にはいい香りが漂う木陰でくつろぎなさい」「秋には衣服に樟脳などの香りをまぶしなさい」などといった香りに関するアドバイスが記されているほか、四部医典の最後から2番目の155章目には神秘的な予言とともに匂いを用いた驚くべき秘法が記されている。

私がこれから言うことをよく聴きなさい。ひとたび末世の五百年が訪れたならば、悪霊たちは突然の禍をもたらす魔鬼を解き放つ。空行母は悪性の伝染病を振りまく。凶暴な外教徒たちは毒を配合する。このとき医者である自分自身と患者の両方を守ることが大切である。
~中略~ 附子、麝香、硫黄、菖蒲根、二種の没食子、ニンニク、を丸薬にし、布で包んで首にかけ、鼻に近づけて匂いを嗅ぎなさい。すると伝染病の業火が燃え盛ったとしても自分自身の体は全く影響を受けない

ibet_ogawa089_4リムスン
五色の糸で結ばれ蝋で封印されている

これはリムスンと呼ばれる感染症予防薬で、実際にSARSや鳥インフルエンザが蔓延した際には、ほぼ全チベット人に配布された実績をもつ。2003年当時、学生だった僕たちは授業が終わると有無を言わさず製薬工場でリムスンの製薬を手伝わされたものだった。そうして生徒全員で頑張った甲斐もあってか、チベット人の死者は報告されていないし、製薬に関わっている僕たちも無事だったのは言うまでもない。配合されている生薬を眺めてみると、強力な匂いを持つものばかりなことから、悪霊退散という原始的な意味合いも含まれているだろう。とはいえ、韓国のキムチなどニンニクを含むものにSARS予防効果があるという説もあることから、現代科学に通じる古代の叡智も匂ってくる。

匂いだけはどんなに頑張ってもテレビやインターネットや電話では伝わりません。だから、あなたの香り、匂いの思い出を作りに一緒にダラムサラで鼻を澄ませてみませんか。あ、もしも、ツアー中に僕がお香を焚いたからといって、透かし屁をしたとは限らないので、どうか誤解しないでくださいね(笑)。

< 関連ツアー >



< 小川さんによる講座情報 >

チベット医学・絵解き講座
8世紀、神秘の国チベットで編纂されたというチベット医学聖典・四部医典は17世紀に80枚の紙芝居として表わされ、より分かりやすく親しみやすいものになりました。本講座では80枚のうちの2番、3番、4番にあたる3つの樹木比喩図を用いて、チベット医学の基礎概念「身体、診察、治療」を解説します。またヒマラヤの薬草についても解説します。

(日 程) 1月30日(日) 2月13日(日)  ※両日、内容は同じ
13:00~15:00  : チベット医学の基礎概念・樹木比喩図
15:15~16:30  : ヒマラヤの薬草講座
(参加費) 4,500円(テキスト代金500円は別途。参考資料は講座代に含まれる)
(場 所) 小川アムチ薬房
(お問い合わせ・お申込み)受付は終了しました。
詳しくは 小川アムチ薬房 のサイトをご覧ください。