第126回●ドゥコル ~チベットの天地明察~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

カーラチャクラマンダラ カーラチャクラマンダラ

いま話題の小説『天地明察』(角川書店)。江戸時代の暦法学者、渋川春海が算術によって月蝕、日蝕をピタリと当て、新しい暦学・貞観暦を作る物語である。この小説を読んだとき、チベットの渋川春海ともいうべき、ソナム・リンチェン先輩を真っ先に思い浮かべた。現代においても、机上の計算だけで月蝕、日蝕をピタリと当てることができるのはもちろん、暦法学に関わる密教経典「カーラチャクラ・タントラ(チベット語でドゥコル、日本名で時輪)」を理解している数少ない暦法学師である。「現代風に喩えると、コンピューターを上手に扱えるのが一般の暦法学師なら、ソナム先生はコンピューターの根本原理を理解し、自分でプログラミングができる数少ない暦法学師だ」。僕と同級生の暦法学師テンジン(第84話)はそう分かりやすく説明してくれた。

ソナム先輩は1974年、チベット本土、ラサの南に位置するロカ地方に生まれ、小さいころから仏教や密教、暦法学など幅広く研鑽を積んだ。チベットからインドへ亡命した1994年、ダラムサラ・メンツィカンの暦法学コースに特別編入。当時、すでに暦法学の実力は教師に比するほどだったという。1998年に暦法学コースを卒業すると、これまた特例により医学コース12期生に入学したのである。2000年8月に僕が初めて先輩に出会った時、真っ先に「西洋暦の夏至、冬至と、チベット暦のそれは一致していますか」という質問をしたところ、「わが意を得たり」のごとく嬉しそうに説明してくれたのを覚えている。そして2001年、僕が医学コース13期生として入学したとき、ソナム先輩は卒業間近の5年生だったので、1年間は同じ学生として寮で暮らす機会に恵まれた。1959年以降、医学と暦法学、両方のコースを修めたのはソナム先輩ともう1人、先輩の同級生クンチョク先輩だけである。

ソナム・リンチェン先輩 ソナム・リンチェン先輩

ちなみに僕が在籍していた医学コースには1週間に1コマだけ暦学の授業があるだけに過ぎない。本来ならばメン(医学)ツィ(暦法学)カンの卒業生たるもの暦法学も深く学んでいなくてはならないのだが、これは僕個人だけではなく、現在のメンツィカンが抱えている大きな問題点である。事実、卒業後に分院で働き始めた同級生たちからは「もっと暦法学を学んでおけばよかった」という切実な後悔を耳にすることがある。なぜなら、仏教行事、葬儀や出産祝いの儀式などは暦法学師の算術によって決定されるのである(第41話)。かくいう自分もダラムサラでの研修医時代、患者から相談をされたことがある。しかし、ダラムサラにはソナム先輩をはじめとして優れた暦法学師がたくさんいたので、病院から100m離れた暦法学院まで案内するだけで僕の役割は御免だった。ところが、地方の分院では暦法学師がいないので、そうはいかない。

では、みんながみんな10年間かけて2つのコースを修めればいいかというと、現実的には難しい。かつて1959年以前は15歳から医学・暦法学の勉強をはじめていたので、それも可能だった。しかし、たとえば僕が在籍した14期生の入学時の平均年齢は23歳で、最年長は僕の31歳である。入学に至るまでの基礎教養課程が長いことと、なによりもアムチを取り巻く社会環境の変化により、学業に10年もかけるのは難しくなってきている。

チベットの暦 チベットの暦

だからこそ、9年の歳月をかけて学んだソナム先輩は、真のメンツィカン卒業生といえるのである。卒業後は暦法学と医学の両方で教師として働き、僕も1年間だけ教えを受けていたことがある。だから本来ならばソナム先生と記さなくてはならないが、寮で共に過ごした仲であることから、失礼ながら先輩と呼ぶほうがしっくりくる。
ただ、純粋にチベットの学問に生きてきたために英語が不自由なことと、典型的な学者肌であることから、チベット社会だけでなく、諸外国にはその卓越した能力を知られていない。そこで、今年『天地明察』がブームになったのを機に、ソナム先輩とともにチベット版『天地明察』を紹介したいところである。とはいえ、そのためには、なによりも自分自身がチベット暦法学を理解しないといけないのだが、それは、しばしお待ちいただきたい。



(注)
『カーラチャクラ・タントラ』は「仏教滅亡の予感の中で未来への希望を託さん」として著され、時間への強い関心を内包しているという。チベットの暦法は基本的に『カーラチャクラ・タントラ』の暦計算に基づいており、その整合的な理解を通じてタントラの真意を明らかにすることが暦学の主要な動機の一つである。
                                         『チベットを知るための50章』より抜粋

チベット暦法学については『チベットを知るための50章』(明石書店)のなかの第34章、35章で分かりやすく解説されています。

(参考)
チベット本土、ラサのチベット医学大学では、最初の4年間、医学だけを学び、最後の5年次に1年間、暦法学を集中的に学ぶ方式をとっており、よい見本となっています。

ちなみに本連載の第1話「ツェルゴン」の中で、岩場でツェルゴンを採取している写真は学生時代のソナム先輩です。


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