第141回●ボラ ~20年目の理科~

エネルギーについて授業する筆者
1993年2月

1年間、「ボラ」とだけ呼ばれ続け、自分の本名を忘れかけたことがある。あれは1992年、北海道留寿都農業高校で理科の講師と舎監を務めたときのことだ(第26話)。当初、雄大な羊蹄山の麓で、「金八先生」のように格好よく授業する光景を夢描いていた。しかし、考えてみれば、僕は教育実習などやったことはなく、ぶっつけ本番で理科の授業に臨むことになる。さらに、考えてみれば農業高校だけに、もともとじっと座って勉強することが苦手な生徒たちが集まるところである(注1)。事実、1日の半分は農業実習に割り当てられていた。そんな教師と生徒たちの組み合わせで授業が成立するはずはなく、無法地帯と化したのは必然の結果だった。いまでも教室の様子をありありと思い出すことができる。窓際ではSがギターを弾き語り、入り口付近ではYたちがサイコロを振りながら「何がでるかな、何がでるかな、恋バナ!」と盛り上がっている。当初、なんども授業を放棄して職員トイレに逃げ込んだ。悔しくて、悔しくて声を押し殺して号泣した。何度ももう帰ろうと思った。でも、現金がまったくなかったことと、あまりにも遠くに来たために帰るのが面倒臭いからという理由のみで思いとどまった。他の先生の授業を参観して話し方や板書の仕方を研究したけれど、付け焼刃の感は否めない。たまに楽をして教材用ビデオを流すと「ボラ、授業から逃げんなよな」と、授業を真面目に聞かないくせに偉そうに注意をする生徒たち。天気のいい日は「おい、ボラ、今日は校外学習にしようぜ」とプロレス技をかけられたまま脅迫され、要求を飲まざるをえなかった。後で校長先生から怒られたのはいうまでもない。いつでも逃げ出せるようにと、けっして自分の荷物を増やすことはなかった。それでも、結局は3月24日まで逃げ出さず1年間の契約期間を満了したことと、舎監として厳しい寮生活を彼らとともに過ごしたことだけは評価してくれたのだろう。最後はそれなりに理科の授業らしく、少しは腰を落ち着けて聞いてくれるようになったものだった。

チベット医学タンカと化学記号が並ぶ講義風景
2012年2月

あれから20年。講演会で堂々と喋っているいまの僕の姿を彼らが見たら、まず、あのボラと同一人物だとは思いもよらないだろう。そもそも彼らは僕の本名を覚えていないからなおさらだ。講師として経験すべき苦難を最初にすべて経験したおかげで、いま、順調に講演活動ができているような気がする。ボラは成長したよ。ありがとう。そして、いま、20年ぶりに理科の授業がしたくなったのは、もちろん君たちのおかげだと思う。

薬草ワークショップ
2012年5月

どこに薬草を採りに行けばいいのか。いつ、採取すればいいのか。薬は毒にもなるってどういうことなのだろうか。○○に効果があるってどういうこと?苦いってどういうこと? そんな疑問は理科を復習すると、意外と簡単に自分で考えることができるようになる。すると応用が効くようになる。公式を覚えるのではなく、公式の成り立ちを知ればもっと算数が面白くなるように、薬草を面白くするヒントは理科だけでなく、国語、算数、理科、社会の教科書のなかに隠されている。「あー! こんな授業を留寿都でやればよかった」と嘆いても仕方のないこと。いまの僕ならば薬草を題材に理科の授業をして、当時の彼らを引き付けられる気がする。今度は僕がみんなを校外学習に無理やり連れ出して、薬草を体感させてやりたいものだ。20年もかかって、ボラはやっと伝えたい「理科」を見つけたよ。ちなみにボラは「小川先生はボランティア教師です(注2)」と赴任式で紹介され、「じゃあ、ボラだな」と生徒から命名されたことに由来している。

越後妻有の棚田風景
2012年5月

7月20日は20年ぶりの理科の授業。そういえば会場の越後妻有は留寿都と同じようにのどかな環境だ。さあ、みなさん、好奇心をランドセルいっぱいにつめこんで登校してきてください。理科を勉強しましょう。



(注1)いま留寿都高校は福祉を中心とした学校になっています。
(注2)正確には教育委員会の臨時職員ということで留寿都村から3万円の給料をいただくとともに、食事は寮でいただいていました。でも、理科講師のほかに24時間体制で寮の舎監を務めていたことから、事実上、ボランティアとして認識されていました。

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