第143回●ターラ ~読経の力~

メンツィカンの読経風景 2002年


     速疾にして勇猛なるターラ菩薩よ
     慧眼は一刹那の稲妻のごとくなり
     三界の守護尊は蓮華の御顔の
     花弁が開きし中より生じたり。

                    (ターラ経の冒頭)



ようやくターラ経を猛スピードで暗誦・読経できるようになった。なぜ、猛スピードでなくてはいけないのか。それはメンツィカン在学中にやり残した宿題に理由がある。メンツィカンでは毎朝毎夕30分の読経が行われ、三宝帰依、四無量心、般若心経、功徳の基盤、などを次々と暗誦で唱えていく(第79話)。さすが医学生である。この集団の1人である誇りを胸に、僕もこのあたりまでは問題なく一緒に読経ができていた。しかし、二十一ターラ菩薩礼賛経(以下、ターラ経)になると全員のギアは一斉にトップに入り雰囲気は一変する。あきれるほどに速い!そのために僕は読経を放棄せざるをえず、ターラ経だけは最後まで暗誦ができなかったのだ。

ラダックの尼寺の読経風景 2013年8月

それもそのはず。幼稚園で最初に教えるのがターラ経だという(注1)。小さい頃からずっと唱え続けているために、もはやみんな無意識のレベルにまで体得しているのがわかる。こうした幼少時から積み重ねられた事象に出会うと、あらためて自分は外国人なんだなとやや劣等感を抱かせられたものだった。だから、卒業後のいま、ターラ経を猛スピードで読経できたことで、僕のなかで、ようやくチベット医としての基本条件を、遅まきながら1つクリアした安心感をえることができた。チベット医学だけでなくチベット仏教や密教を学びたければ、なにはさておき、まずはターラ経の読経からはじめてみてはいかがだろうか。

ちなみにチベットのお経は当たり前のことではあるが、チベット語で書かれていて、上記のようにゆっくり読めば内容がわかる。それはちょうど百人一首や万葉集、平家物語を読んだときの、なんとなく分かったような感覚だ。内容を分かったうえで暗誦しているとどんどん世界が広がっていく。また逆に内容がいまひとつ分かっていなくても暗唱しているうちに不思議とふっと腑に落ちることがある。そしてお経のなかに「オム・タレ・トゥタレ・トゥレ・ソーハー(ターラ菩薩の真言)」など、直接は理解が不能なサンスクリット語がときどき登場し、ほどよい加減で有難さを演出してくれる。チベットのお経はこのバランスが絶妙なのだ。

ターラ菩薩

かくいう自分は、2009年にメンツィカンを卒業し、日本に帰国してからも小諸で、そして今は東京の自宅で毎朝30分の読経を欠かすことは無い(と言いたいけれどたまにはお休みする)。特に、講演会のある朝は丁寧にゆっくり読経することで心が整う。ある意味、瞑想のような効果が期待できる。とはいえ、まだまだ宗教アレルギーが根強く残る日本では、大きな声で唱えるのははばかられるもの。メンツィカン時代の半分ほどの音量では心と体が共鳴しないし、ましてや1人では気分が乗らないこともある。そんなとき、在日チベット人たちの主催で読経の会が開かれているのを知って、先日7月24日、さっそく参加した。新宿のお寺でチベット人や日本人たちと思う存分、大きな声で読経できることの幸せ。1時間はあっというまに経過した。やっぱり1人よりもみんなと一緒の方が充実する。


もっともっと日本でチベット仏教の読経の輪を広げていきたい。すると、きっとチベット人のいいところ、たとえば、クヨクヨと悩まない性格や、たくましさや、人に対するオープンさなどが日本人に伝わるような気がする。それが、きっと、薬育(第129話)とともに、自分が日本社会に確実に貢献できることではないだろうか(奇跡の薬草や難病治療などへの期待はさておき)。そして、日本にチベット語での読経の声が響き渡るとき、はじめてチベット医学は日本に受け入れられると思っている。まだまだ時間はかかるけれど、千里の道も一歩から、チベット風にいえば、大海も一滴のしたたりから。さあ、一緒にチベット語で読経しませんか。

(注1)
ターラ菩薩経を最初に読むのはチベット亡命社会、特に学校組織(お寺ではなく)の独自の習慣であり、チベット本土では地方や宗派によってお経を学ぶ順番は異なっています。また、読経はできるだけ心を込めてゆっくり唱えることが良しとされています。ターラ経の訳は『実践チベット仏教入門』(春秋社)を参照しました。

(参考)
ラカルのお祈りの会
三宝帰依、般若心経、ターラ菩薩、ダライラマ法王長寿、などのお祈りを、ゆっくりと読経します。テキストにはカタカナで音読みが振ってあるので、初めてのかたでも読めます。在日チベット人たちが読経をリードしてくれます。