第153回●ケミカル ~大自然の精霊~

黒板でできた教室

7月、越後妻有の農舞台(のうぶたい)のなかにある会場に足を踏み入れたとき、僕の脳裏にヘンゼルとグレーテルの「お菓子の家」が浮かんだ。なぜなら、この教室は四方八方の壁、床だけでなく、机、椅子、に至るすべてが菓子ならぬ黒板の材質でできていて、落書き大歓迎という不思議な空間なのだ。つまり「黒板がある教室」ではなく「黒板でできた教室」なのである。

芸術作品の1つ 夢の部屋

今回の風の講座「薬草で理科教室」の共催は「大地の芸術祭の里」さん。北川フラムさんらの働きかけで地域全体を美術館にしてしまおうという試みです。村の各所には、まさに現代芸術とよばれる作品が並び、それが素朴な村の雰囲気との違和感を放っていて、それはそれで面白い。そんな芸術家集団が手掛けた教室だというと、その由来に納得がいくだろう。

床に化学記号を描くSさん

僕は芸術的センスがまったくないなりに、なにかやってやろうと新幹線のなかで思いを巡らせていた。そして講座がはじまる3時間前に会場入りして薬学部時代の教科書を広げると、猛然と化学記号をチョークで描きはじめた。ビタミンCやカフェイン、ニコチン、カテキンなど薬草成分の構造式を大きく、または小さく書いていく。もう、どこにでもあちこちにだ。この化学記号は僕が22歳までいちばん仲良くしていた仲間たちだ。僕が「一緒に書きましょうよ」と担当のSさんに声をかけると、試しにとチョークを床に滑らせはじめた。なんでも某大学の理系出身らしい。「久しぶりに化学記号を書くと楽しいですね」。ノリノリになった彼は床にキノコ毒成分の大作を製作しはじめた。うーん、さすがにセンスがある。そうして教室が化学記号で埋め尽くされていったのである。

かわいい絵を描く美術スタッフ

現地の美術スタッフがなにやら教室で面白いことがはじまったという噂を聞きつけてやってきた。「わー、亀の甲(ベンゼン環)って芸術的ですね」と驚くと、「ちょっと落書きしていいですか」とベンゼン環のそばにかわいい絵を書きくわえてくれた。まさにケミカルアートの世界。農舞台がオープンして以来、ここまで四方八方、机、椅子にいたるまで落書、いや、アートで埋め尽くした例はないらしい。

そして、講座中、実物の薬草を見せつつ「薬草の精」ともいえる化学記号を指し示すことでこれらは活き活きと動き出した。いや、待てよ、そもそも、最初から参加者のひとたちと一緒にケミカルアートを思い思いに描いて楽しめばよかったな。まあ、それは次回。今回は僕とSさんが化学記号を楽しむことができたからよしとしよう。

もともと僕は歴史と化学が大好で高校1年までの夢は歴史学者だったが、将来の安定性を考慮して2年時に理系コースを選択し化学の道に絞った。順調に薬学部に合格。3年時には黄檗(第32話)からベルベリンという成分を抽出した実験をよく覚えている。そして4年時には薬化学教室という研究室を選んだ。一人一人に実験台と机が与えられると気分は一人前の研究者だ(注1)。僕はメントールというミントの成分や、カンファ―というクスノキの主成分、バニリンといってバニラ(注2)の成分を原料に用いる合成研究を行っていた。化学というと無機質で冷たいイメージが先行しているが、合成に用いる原料で自然に由来しないものはほとんどない。湯川秀樹博士のお言葉を借りるなら「化学は第二の自然」と言った方がピッタリくる(注3)。

アカネを探す参加者

2時間に渡る講義のあと、いよいよみんなで大自然へと飛び出した。イカリソウやアカネ、アキカラマツを目を凝らしながら見つけていく。きっと、参加者のみんなは化学記号から大自然の世界へと混乱したかもしれないけれど、そんなほどよい違和感もまた「大地の芸術祭」らしくていいではないか。最後に自然薯を見つけたのでみんなで夢中になって掘った。これだって僕の脳裏にはムコ多糖体という化学記号が脳裏に浮かんでくる。
「化学の向うに大自然を。大自然の中に化学を」。化学って大自然の精霊たちが洋服で着飾っているようなものなんですよ。さあ、春になったら森に素敵な化学を探しにいきましょう。

(注1)
研究テーマは「不斉(ふせい)合成」。物質には右手と左手の関係のように似ているが決して重なり合わない鏡像体が存在している。そして片方が有効成分として機能しても、もう片方が激しい副作用で害を及ぼすことがある。サリドマイド事件でこの性質は有名になった。その2つを分別する研究である。

(注2)
ラン科の常緑蔓性の植物。果実にバニリンを含有し。甘い芳香があり、菓子や化粧品の香料とする。

(注3)
科学文明は地球上の全地域へ遅かれ早かれ普及してゆくことになる。それはもはや逆戻しのできない、一方向きの動きである。科学文明がそのような浸透力をもつ理由のひとつは、それが本来、自然と別のものでないことにある。自然界のなかにもともと潜在していた、さまざまな可能性を人間が見つけだし、それを現実化した結果が科学文明にほかならない。文明とはいわば第二の自然である。(『自己発見』 湯川秀樹 講談社文庫 P78)

※ちなみに、農舞台の「黒板教室」は、基本的に誰でも入室でき、だれでも落書きOKです。


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