第176回 ソワ・リクパ ~医学の分類~

治療風景治療風景

メンツィカン診察室に25歳くらいのチベット人青年が訪れた。彼は朝から何度も診察室を覗きこんでいて気になっていたのだが、ちょうど指導医のデキ先生がいつものように(第43話)席を外すタイミングを狙っていたようだ。研修医である僕の前に座るなり小声で「あなたは日本のドクターだと聞いています。本当のところ、この口内炎はチベット薬で治るのでしょうか」と尋ねてきた。どうやら彼はアムチとしてよりも日本人ゆえの客観的なセカンドオピニオンを僕に求めているようだ。僕は日本の薬剤師・ファーマシストだが、医師だという誤解が広まっているのは以前から知っていた(注1)。僕は彼の脈を診るまでもなく、悪化している口内炎を観察しなから「口内炎なら、正直、ビタミンB1かB2を摂取したほうが確実に効くだろう。まずは、隣のデレック病院で処方してもらったほうがいい。そのうえでチベット薬のシンガル六味丸を服用してみようか」とアドバイスしてあげた。彼は「やっぱりそうですよね。ありがとうございました」と笑顔を浮かべると足早に去っていった。チベット社会にいるとこうして唯一の日本人の薬剤師(医師?)としての役割を期待されることがあるが、まんざら悪い気もしない。

診察風景(2008年) 写真提供:川畑嘉文診察風景(2008年) 写真提供:川畑嘉文

ちなみに、薬剤師とチベット医、チベット医と薬剤師、書類でどちらを先に記すかは、いつも悩まされる。本・エッセーの読者からすると、当然、チベット医を重要視するだろうが、意外と僕は日本の薬剤師にも同じほどに誇りをもっている。なにしろ、チベット医学の学びが10年ならば、薬剤師は小学校に入学し22歳で国家試験に合格するまで、実に16年もの年月を要しているのだから。「患者を診察するときどちらの理論を使うのですか」ともよく聞かれるが、あまり「どちらか」を意識したことはない。メンツィカンでの診療中に日本の薬理学を思いだすことはよくあった。僕だけでなく、意外と、現代の若きアムチたちは英語の現代薬理学書を参考書がわりにしている。時代が移り変わるなかで現代の知識を柔軟に取り入れていくのはそれほど特別な考え方ではない(注2)。

診察風景 インド・デリー診察風景 インド・デリー

外国の研究者から「チベット人はメンツィカンと現代医学の病院のどちらを選んでいますか」と頻繁に尋ねられる。そのたびに僕を含めて現場のアムチたちは答えに閉口したものだった。確実にいえることは「どちらも」であり、日本のように「どちらか」という対立項で医学を捉えない。たとえば、ダラムサラにはデレック病院など西洋医学の病院があることから、アムチはより純粋なチベット医学を安心して行える環境にある。急性疾患や激しい外傷の場合はすぐさまデレックに送るし、デレックからはアムチに心療内科的なものを求める(第47話)。

デレック病院デレック病院

前述の青年は、少し年配のチベット人アムチよりも、日本からきた現代風のアムチからの意見を参考にしたかっただけのことである。いっぽう、西洋医学の病院がない辺境の地に赴任しているアムチたちは、そんな悠長なことはいっていられない(第9話)。外科でもなんでもやらなければならず、抗生物質や消毒薬を常備するのは当然だ。日本の医師であり冒険家の関野吉晴さんは著書『グレートジャーニー』のなかで僕と同じような感想を述べられている。

北ドルポに長期滞在するので、村人の診療活動をはじめた。(中略)アムチがわたしにライバル意識を持たないだろうか。少し不安だった。ナンコン谷で最も信頼の厚いアムチ、デジェン・ラブラン氏に会うと、それが杞憂であることがわかった。(中略)私に西洋医として協力するよう求めてきた。(中略)
「チベット医学か西洋医学か」という選択はしない。「チベット医学も西洋医学も」効果があればどちらにも診てもらいたいのだ。彼らはとても実際的な人々だということがわかった。(P102)

西洋医学と一緒にあるとき、西洋医学が失った部分を補おうとして「チベットの医学」という分類がはじめて生起する。もしも、西洋医学がない環境では、チベット医学という境界は生まれず「医学(チベット語でソワ・リクパ)」のままである。事実、『四部医典』にはチベット医学という単語は登場せず、終始「ソワ・リクパ」と記されている。僕は選択肢や分類学に溢れた日本社会を離れ、ヒマラヤの山の中でひたすら薬草を採り続け、『四部医典』を暗誦しているうちに、だんだんと「○○医学」という分類学に興味がなくなってきたのを覚えている。

注1
チベット医は医師であり薬剤師でもあるので、二つが分離している日本の医療システムは理解されにくい。

注2
アムチのみんながみんなこう思っているわけではない。なかにはチベット医学至上主義のアムチもいる。

注3
『四部医典』には、「チベットの」という単語は2か所「チベット語で」「チベット地域で」として用いられている。ソワ・リクパは省略型で「ソリク」と記されることがある。メンツィカン関連商品のロゴマークは「ソリク」である。

参考文献
グレートジャーニー』関野吉晴 ちくま新書


小川さんの講座情報



【講座】