(4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回は「ラダック伝統医を訪ねて」シリーズの番外編です。)
レ―近郊のスタクナ寺を訪れたときのこと。スタンジンの仲介で4歳のリンポチェ(活仏)から御加持をいただく機会を得た。僕は手を合わせ頭を垂れると、リンポチェから金剛杖で頭を撫でていただいた。そして、「いただいた」と記すほどに意識が変わった自分に気がつかされた。チベット社会で暮らし始めた15年前、転生(生まれ変わり)制度のことは他人事として興味を持っていたが、だからといって、幼少のリンポチェに敬意の念を抱くことはできなかったことを正直に告白しておきたい。
メンツィカンに入学して、一番大きかったカルチャーショックといえば、先輩後輩・年功序列という日本的な概念がほとんどないことだった。入学時、ほとんどの同級生は当時、31歳の僕よりも8歳近く若かったが、年上として敬意を払われることはまったくなかった。いや、もちろん僕だって、メンツィカンの新入生として謙虚に触れあおうという意気込みがあるにはあった。しかし、そもそも「謙虚に」なんて上から目線な気持ちが特別に生まれることじたい、すでに日本的な感覚だったと、いまにして気がつかされる。しかも、翌年、年下であり後輩でもある学生たちも「タメ」で接してくることに、戸惑ってしまった。チベット社会では小学校のときから年齢の違いにこだわることはなく、日本の会社のような上司、部下という概念も薄い。ただし、教師と高僧や老人に対する敬意の払い方は、日本よりも遙かに丁寧であることを誤解のないように補足しておきたい。
日本では1歳でも年が違えば基本的に敬語で接する文化である。幼少時から高校生にかけては年齢の序列は厳しく、特に体育会系の部活動での上下関係はこれまた輪をかけて厳しい。なにしろ、大学入学時には1年生にとって4年生は神様だと教えられたものだ。ましてや、歴史ある東北大学学友会弓道部で主将まで務めたこの僕には、その年功序列の日本的な気風が、悲しいかな、骨の髄まで身に沁みていたのだろう。そして、10年間に及ぶチベット人たちとの共同生活のおかげで、ようやく骨の髄から洗い流されたようだ。43歳になってから大学院生として20代の学生たちとともに机を並べ、年下の彼らを先輩として教えを請うことができたのは、チベット社会で10年間、暮らした成果なのは間違いない。
転生制度には、たとえばダライラマ制度を例にとれば、政治的な空白期間が生まれるなどの弊害も指摘することができる。また、転生者の認定には、現実にはさまざまな大人の都合が介在することもある。外国人からは奇異な風習としてキワモノ扱いされることだってある。そうした裏の事情や斜めからの解釈はさておいても、年齢の上下にこだわらず、「魂」に敬意を表する文化は、年功序列制度によって硬直化しがちな日本社会に新鮮な違和感を与えてくれるような気がしている。
また、活仏制度は仏教・密教にも精通した理想のアムチを生み出すのに理想的な環境といえる。チベット語の基礎学問に3年、顕教に10年、密教に6年かかり、そのうえ医学に5年は最低でも学習期間が必要なことから、小さい頃から24年近くに渡る英才教育を施してはじめて「真のアムチ」は誕生する。また、幼少時から活仏としての特別な教育を受けることにより公的な意識が強く育まれ、それはチベット医として大切な素養となる。しかし、近年では密教まで正式に修めたアムチは極めて少なく、たとえば、2001年に逝去された名医トガワ・リンポチェくらいしか御名前がうかばない。だから、もしも、この幼いリンポチェがチベット医学の道を志されたならば、きっと素晴らしいアムチになるのにと思わずにはいられない。
これも何かの縁かもしれないな。スタクナ・リンポチェが将来、有名なアムチになったときのために、この記念写真を大切に保存しておこうと思っている。
注1 転生制度
チベットでは「人は生まれ変わりを繰り返す」という輪廻転生の思想に基づいてる。そのためダライラマ法王などの高僧が亡くなると、「生まれ変わり」を探して後継者とする。
注2
残念ながら、メンツィカンでは仏教の基礎知識と、法要としての密教しか学ばない。
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