第194回 トゥジェチェ ~締め切り~

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2015年1月8日の15時の時報とともに、早稲田大学内の修士論文受付の厚い扉は、冷酷なまでに閉じられる。そこには一切の例外も情状酌量の余地も存在しない。ほんのわずか数分、到着が間に合わず受付部屋の前で泣き崩れ、または、呆然と立ち尽くす大学院生の姿は、それからの1年間、大学内で都市伝説のように語られ続け、そして、後輩たちに緊張感という形で貢献していく。その後輩の一人である僕も、最後の1カ月、アドレナリンが放出されっぱなしの緊張感のなかで執筆することができた(第190話)。締め切りの存在は偉大である。普段にはない緊張感のおかげで論文の完成度が一気に高まっていくのを実感できた。

こうして修士論文の締め切りに対峙していたとき、3年前、『僕は日本でたったひとりのチベット医になった』の締め切りに追われていたときの緊張感を思い起こしていた。2009年に帰国後、この『ヒマラヤの宝探し』をまとめる形で書籍化する話が持ち上がったものの、13万文字近くの文章をまとめるのは至難の技だった。なによりも明確な締め切りがないことが詰めが甘くなっていた原因である。「いつか出版できればいいや」と焦りがなかったといえば格好がいいが、その焦りがないがゆえに、最後のハードルを越えることができないまま出版社との校正の往復が続いていた。しかし、2011年の1月、ついに本の締め切りが設けられた。それは出版社によって定められた締め切りではない。「母の余命」という冷酷なまでの締め切りである。

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「いつ、本は完成するんだい」と語る母の口調からは、もう、締め切りが迫っていることを否応なしに自覚させられた。それからというもの深夜まで校正作業に明け暮れた。母の死の恐怖と対峙するに及び、もう、なにも自分を飾る必要はなかった。本のなかですべてをさらけ出す覚悟が生まれたのもこの頃だ。出版社の担当者が「文章が劇的に変わった」と後に語ってくれた。しかし、結局、締め切りには間に合わず、その扉は2011年7月7日の16時に冷酷なまでに閉ざされ、母の手に本が届くことはなかった(第106話)。

母の死後、遺品の整理をしていると大量のプリントがでてきて、動かしていた手が止まった。『チベット医学生の青春』。本の旧タイトルだ。僕が実家のパソコンから出版社に送って消去を忘れていた原稿を、偶然かそれとも意図的になのか、母が見つけ出してプリントアウトしたようだ。付箋が丁寧に何枚もつけてあり、読み込んだ様子が伝わってくる。後に出版された文章と比べると、ずいぶん荒削りだったけれども、母が草稿を読んでくれていたことを知って、少しだけ肩の荷をおろすとともに、出版を待ち望む母の執念が伝わってきて切なくなった。

母の死から3年後、父が同じく癌で亡くなった。唯一の遺言は「遺稿集を必ず出版すること」だった。長年、政治家として活躍してきた父が息子に託した遺言を、正直なところ「どうすりゃいいんだ」と困惑しながら「わかったよ」と病床の父に、やや無責任な返事をしていたものだった。3年前に『僕は日本でたったひとりのチベット医になった』を出版した経験があるとはいえ製本には参加していない。親戚や支援者のみなさんの関係上、遺稿集の締め切りは1年後の1周忌と定められた。僕は、生前に父が発表した文章をまとめると、本を作ってくれる印刷所を必死に探しまわり、知人の知人の紹介で、ようやく上田市の隣、松本市の藤原印刷と出会うことができた。なんども足を運んで担当者と打ち合わせをし、表紙や紙を選び文章の校正を重ね、父の死から1年後にようやく完成。父との約束を果たせた安堵感とともに、おかげで「そうか、本はこうしてできるんだ。他所の出版社に頼らなくても自分で作ればいいのか」という実感を得たのである。そして、その勢いのまま、かねてから滞っていた新刊の製作に取り組み、8カ月後の2月、『チベット、薬草の旅』を藤原印刷から自費出版した。

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2月5日の朝10時、印刷所から本が納品されると、本の束が包まれた油紙を丁寧にほどいていった。淡い緑色の表紙が現れた。手に取ってその感触を確かめてみる。本の手触りがとてもいい。紙の香りがする。手作りだからこその“こだわり”が伝わる製本に胸がいっぱいになった。そして、まず薬師如来の仏前に、次に父の遺影の前に本を捧げた。おかげで満足のいく本が完成しました。ありがとう、トゥジェチェと心の中で唱えながら。


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