そういえば小さい頃、塩といえば無粋な油紙袋に入った真っ白な食塩しかなかった。いつのころからか、赤みがかった自然塩が流通しだしたような気がしているが明確な転換点を僕は覚えていない。たぶん僕が田舎暮らしに興味を持ち始めた26歳のころだと思う。進学校で学び、国立大学を卒業し一般教養を深く学んだはずだったのに、塩に関わる重大な問題を学ぶ機会はなかったようだ。社会の大きな問題は意外と「そういえば」という無自覚と自覚の境界線に潜んでいるのかもしれない。
ここで簡単に塩の歴史を振り返ってみたい。「敵に塩を贈る」ということわざにあるように古来より塩作りは日本の沿岸で行われてきた。しかし明治政府が成立すると国家の税収を安定させるために塩を専売制にして国の管理下に置いた。大きな転換点は1971年にやってくる。イオン交換膜法という工業的な製法によって純粋なNaClのみの製塩法が確立すると塩田法が施行され、海岸における天然塩の製造が禁止されたのである。もちろん当時、既存の製塩団体から激しい抵抗運動が起こったという。それから製塩団体が地道に製法を守りつづけることで26年後、1997年の自由化につながっていった(注)。余談ではあるがサラリー(給料)の語源はラテン語の塩(サラリウム)にあるという。
国は違えど、製塩禁止法を大事件として世間に知らしめたのがマハトマ・ガンジーによる「塩の行進」である。1930年、インドを支配していたイギリス政府によって許可なき製塩が禁止されると、ガンジーは製塩の自由を訴えて360km行進した。そして海岸にたどり着くとあえて自然塩を作り、あえて政府に捕らえられたのである。闘争の甲斐あって製塩は自由化され、さらには1949年のインド独立へとつながっていくことになる。つまり、国の独立につながるほどに製塩の自由とは大きな意味を帯びているといえる。
ちなみにチベット語で塩はツァと呼ばれ主に湖で採れる。チベットは昔、海の底だったおかげで岩塩がその名のとおり岩のように豊富に採取でき、いまもむかしも貴重な輸出品である。ミネラルが豊富で硫黄分が強いものが多い。簡単に採取できるがゆえに日本やインドのように法的規制は生じえるはずもなかった(注2)。チベットのバター茶に塩分は欠かせない。また、チベット医学では主に胃薬として焼き塩を薬に配合している。
話を日本に戻そう。近代日本における薬と塩の歴史はとても似ていることに僕は注目している。薬も塩と同じように工業的製法が確立したことで、天然薬物、つまり薬草からの製薬は制限された(第184話)。ただ、大きく違う点は塩は26年の拘束の時代を過ごしたのちに天然塩が自由化されたことである。いっぽうの薬は1976年にGMP基準が設けられて民衆レベルでの製造販売が禁止されてから40年が経過しようとしている。「そういえば」かつて各村々で作られていた伝統薬は姿を消した。「そういえば」朝市で売られていたセンブリやキハダ、ゲンノショウコは違法行為となった。「そういえば」薬剤師は自ら薬を作ることを忘れてしまった。それは天然のものが健康にいいか悪いかという話ではない。手作りが素晴らしいという話ではけっしてない。人間にとって絶対不可欠な営みが民衆から忘れ去られ、後戻りができなくなることが問題なのである。後戻りができなければ便利な社会、もしくは国家に依存せざるを得なくなる。依存は楽でいいけれど、100%の依存はなんとなく気持ちが悪くはないだろうか。少なくとも僕は居心地が悪いし、なによりも依存している事実を知らずに(知らされずに)生活していたことが、なんだか怖い。
僕はこんなことを夢見ている。かつては「生類憐みの令」によって動物の殺生が厳しく禁じられた時代があった。戦前は治安維持法によって言論が厳しく統制されていた時代があった。同じように「そういえば」酒や塩、そして薬が国家によって厳しく統制されていた特殊な時代があったなあと懐かしむ時代が、それは50年後になるかもしれないが、いつか訪れることを。
注1
天然塩研究会という形で各地で製塩法は受け継がれた。たとえばかつて東京都大島には「日本食用塩研究会」があり、沿岸での製塩をワークショップとして行っていた。
注2
ただし塩にヨード分を添加してから流通しなくてはならない。
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