第263話 ダンツィ ~チベットの蜂蜜~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

知人から「畑の隅に養蜂の箱を置かせてくれないか」とお願いされたのが切っ掛けだった。僕は養蜂には興味はあったけれど、ちょっと遠い存在に感じて実践することはなかった。だからこそ養蜂を学ぶ機会になるのではと快諾した。そうして空っぽの巣箱を置いて2週間後の5月23日の11時ころ、店の縁側で本を読んでいると、地鳴りのような羽音が近づいてきた。身の危険を感じ店内に逃げ込んで観察していると予想通り蜂の大群がやってきて、あっという間に栗の木(第224話)の枝に高さ50㎝ほどの逆円錐形の陣形を築いたのである。はじめて出会うミツバチ劇場に僕も妻も興味津々。後で知ったところによると、これは分蜂と呼ばれる習性で、初夏になるとミツバチの集団は2つに分かれ、1派は新しい巣を探しに旅立つという。それにしても見事なまでのスクラムワークだ。

日本ミツバチ日本ミツバチ
養蜂箱 養蜂箱

そのまま1時間は過ぎただろうか、突如、円錐形を崩すと畑に向かって蜂の大群が飛び立っていった。「もしや」と見守っていると、80m離れた畑の巣箱に見事なまでに入ったのである。なんでも偵察隊の蜂が相応しい場所(たとえば大木の洞)を見つけ、報告することで引っ越しがはじまるというが、いったいぜんたいどうやってこの蜂の大群は情報を吟味し、議論し、合意にいたるというのだろうか。夏休みのNHKラジオ「子どもなぜなに相談室」に電話したくなってきた。そして「いま、まさに巣箱にミツバチの大群が入りました」と電話で報告すると、知人はすぐさま喜び勇んでやってきた。我が子をみるかのように愛おしんでいるのがわかる。しかも西洋ミツバチではなく貴重な日本ミツバチだというので喜びはひとしおのようだ。

そういえば、と振り返ってみると僕は幼少期にはほとんど蜂蜜に縁がなかった。それがインド・ダラムサラに住んでから急に身近な存在になった。なにしろダラムサラは蜂蜜の一大産地。ここでホットレモン・ジンジャ―・ハニ―・ティーという長い名前の飲み物に出会って以来、カフェでの定番になったのである。その名のとおり温かい紅茶にレモン、生姜、蜂蜜を加えたもの。これさえあれば風邪をひかないという安心感があった。したがって僕がいままで摂取した蜂蜜の9割近くはダラムサラでの10年間(1999~2009)に集約されているといっても過言ではない。

蜂蜜にヤギの肝臓を入れて煮込む 2003年10月撮影 蜂蜜にヤギの肝臓を入れて煮込む 2003年10月撮影

チベット語で蜂蜜はダン(蜂)・ツィ(樹液)という。八世紀に編纂された四部医典には蜂蜜はメン(薬)(馬)と称され、他の薬の効き目を強く速くすることから馬に喩えられている。具体的には消化不良、冷え症、浮腫み、リウマチなどベーケン病に属する薬を蜂蜜と一緒に服用するとより効き目が確かになるとされる(注1)。そういえば薬用バターの製薬実習(第16話)では薬馬として蜂蜜を添加するにあたり不思議な工程があった。まず蜂蜜にチャン(第206話)を入れて煮る。そこにヤギの肝臓を一切れ入れて約30分一緒に煮たところで取り出すのである。先生は「蜂蜜の毒を取り去るため」と解説していたが、教典では毒の本質が何かは明確にされていない。そうして完全に水分を除去したら冷たい石の上にあけて温かいうちに両手で何度も引きのばす。すると蜂蜜に空気が入って白くなり冷えると固まる。それを石臼で粉にして薬用バターに混ぜると完成である。

蜂蜜の毒といえばダン(蜂)・ニョン(狂)、直訳すると「狂気の蜂蜜」が思いあたり、四部医典の眼病治療と解毒の章に薬剤として3か所のみ記されている。ただし現在は実践されていない。これはツツジ科に属する特定の植物を蜜源とする蜂蜜のことで、摂取すると嘔吐、痺れなど副作用が生じることから現在も注意が喚起されている。古来チベットでは主にチベット南方のモン、ブータン地方から蜂蜜が輸入されていた(注2)。そしてこの周辺には毒性のあるシャクナゲ(ツツジ科)が豊富に生えている。ということは、もしかしたらシャクナゲを蜜源とする毒蜂蜜の混入に備えて、念のために酒と肝臓を加えて解毒しようとしたのではないか。そんな仮説が浮かびあがったのは本稿を書いている「いま」である(注3)。

ブータン(ブムタン地方)の養蜂 ブータン(ブムタン地方)の養蜂風景

この仮説の正否のほどはともかく、テーマを「蜂蜜」の一つに決めて四部医典を最初からじっくりと読み返したことで、この他にも様々な、新たな気づきを得ることができた。四部医典は読み返すたびに、そのときの僕の着眼点に応じて新たな知見を与えてくれる。今回、学び直しの切っ掛けを与えてくれたミツバチのみなさんありがとう。美味しい蜂蜜も期待しています。



注1
ルン病の薬の馬は黒砂糖、ティーパ病の薬の馬は氷糖である。

注2
1716~1721年ラサに滞在したイエズス会宣教師イッポリト・デシデリは、多量のすばらしいハチミツ、蜜蝋、カルダモン、ミロバラン、その他の多くの薬用植物がモン地方から輸入されていたことを報告している。
参考:チベットの報告〈1〉 (東洋文庫)(訳者 薬師義美 平凡社1991)

注3
毒成分はグラヤノトキシン(ロドトキシン)類とわかり化学構造式も確認できたが、果たしてアルコールと肝臓の添加で化学変化が起きるかどうかは僕にはわからない。少なくとも肝臓のアミノ酸を添加することで血中タンパク濃度が上がり、蜂蜜毒による急激な影響を緩和することは期待できる。

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