第296話 サンバ ~橋~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

崩落した橋 崩落した橋

あの日2019年10月12日、千曲川から3キロ離れた場所に位置する妻の実家で朝を迎えた。台風19号に伴って昨晩から降り続いていた豪雨は止んだけれど、上空にはヘリコプターが旋回し異様な雰囲気が漂っていた。そのとき携帯電話の警報音がけたたましくなり千曲川の堤防が決壊寸前であることを知る。妻と妻の両親、家族全員で車に乗り込み、なにはともあれ山の上にある森のくすり塾へ避難した。そして到着直後の8時、別所線の赤い橋が崩落したことを知ったのである。

上田駅を始発駅とする別所線は大正時代にかかった赤い橋で千曲川を越えて終着駅の別所温泉駅まで10キロを30分(590円)で走っている。上田市には昭和40年ころまで別所線を含めて北東に向かう真田線、南西に向かう丸子線、西に向かう青木線など路面電車が発達していた。しかし自動車の普及とともにその必要性が薄れ次々と廃線になり別所線も昭和48年に廃線が一旦は決定したが熱心な住民運動によって唯一存続となった経緯がある。そしてそのおかげで、いまの自分たちがある。なぜなら2013年に移住先を探していたとき、当時は妻が車の運転に自信がなかったので別所線沿線が第一候補だったからである。別所線は値段が高いのが気に罹るが普段は混み合うことがないのどかな電車だ。『千と千尋の神隠し』に登場する電車のモデルは別所線ではないかという都市伝説がある。確かに夜、真っ暗な田園地帯を走る二両電車を遠くから眺めていると、さもありなんと納得してしまうほどに美しい。

タントンゲルポ タントン・ギェルポ

チベット語で橋はサンバといい、「連続させるもの」という原義がある。ブータンを含めたチベット文化圏では15世紀、各地に鉄橋をかけた偉人タントン・ギェルポ(以下タントン)を崇める文化が根づいている。ただし鉄橋といっても正確には鉄の鎖の吊橋である。またタントンは橋をかける際に工事の苦労をねぎらうべく歌と踊りを盛大に行うとともに、資金を調達するために各地で歌謡を催したことから歌謡、舞踏の神様としても崇められている。さらに「タントン白丸」と呼ばれる胃腸薬を開発したことから医学の分野でも讃えられ、現代のメンツィカンでは主に胃炎に処方されている。また家を建てる際の地鎮祭にはタントンの肖像画を掲げる風習がある。こうして様々な分野で讃えられる偉人であるが、あくまで先駆たる業績は「橋」であることをチベット人、ブータン人は忘れることはない。ブータン人にはじめて出会ったとき(第70話)真っ先に「ブータンの多くの橋は日本のNGOによってかけられました。ありがとうございます」と感謝され、その熱量にちょっと戸惑ってしまったが、橋に対する特別な敬意はタントンを崇拝する文化とつながっていることに、いまになって気がついた。

タントンゲルポが作った鉄鎖の橋(復刻) タントン・ギェルポが作った鉄鎖の橋(再建)@ブータン・パロ郊外
アチェラモ(ラサ・ダクイェルパ) チベット・オペラ(アチェラモ) @ラサ郊外・ダクイェルパ


いっぽう日本では橋に関してタントンほどに全国区な方はパッと想い浮かばないけれど、個人的には橋への想いはけっこう強い。薬房建設に伴い道路と駐車場をつなぐ橋をかけたのだが、たった2m30cmの長さだけでも大変だった。まずは両端を整地し、次に平らな石を並べて土台を作った。そこに枕木を並べれば完成なのだが、5年目の今年になってガタガタになってしまい、この冬にかけ直した。すでに使えない枕木もあったので、森で杉の木を伐って引っ張り出し、皮を剥いてそのまま橋にかけてみた……というと簡単そうだが重いのなんのって。これだけ重くて太ければしばらくは大丈夫だろう。橋に問題があれば車の大事故につながるので毎日の点検はかかせない。原始的な橋とはいえ、当事者として日々気を配っていると橋の奥深さがほんの少しだけわかってくる。

橋の土台作り

だからというわけではないのだが、赤い橋が崩落してからこの1年半、近くを通りかかるたびに橋の復旧が気にかかっていた。橋がかかる、つまり「つながる」というのは心の奥深くに働きかける何か普遍的な力があるようだ。そしてついに先日3月28日、別所線の赤い橋が1年半ぶりに復興し上田は大いに盛り上がった。終日乗車無料の大サービスのおかげで乗客は過去最多の7800人を記録。これからは224mの赤い橋と230cmの薬房の橋、両方の安全を祈願するためにタントンを崇めるお経を朝の日課に加えなくてはと思っているところである。

<参考1>
別所線と別所温泉は寅さんの映画「男はつらいよ 第18作」(昭和51年)に登場しています。

<参考2>
伝説によれば、タントンは母親の胎内で60年、あるいは500年、あるいは800年を過ごして(老子のように)老人の姿で生まれてきたという。『ユトク伝』(中川和也訳 岩波文庫)
なおタントンは平原、ギェルポは王様という意味なので、直訳すると「平原の王」となる。

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