原のコロナ休業日記 Vol.32 「はと錦」のお菓子2

 私が高校2年生の春から秋にかけて、およそ半年近くかけて、祖父母と親夫婦で長年やってきた「たばこや」を立て替えて「はと錦」(ハトキン)は誕生した。店舗といっても住居を兼ねていたから家ごと建て替えということになった。その間は、祖父母が過ごしていた離れ(8畳間3つ)で私以外の家族は過ごしたが、私は、親戚の家に預けられた。兄は、当時、まだ21歳だっが、家ぐるみとはいえ、失敗したら家族が路頭に迷う。その責任を負わされたといえよう。いくら田舎でもケーキなどの洋菓子がブームになりつつあったとはいえ、随分な重荷だったと思う。
 
 「たばこや」は、煎餅やチョコレートなどを棚売りしながら餅・饅頭を製造販売していた。「たばこや」という屋号は菓子屋らしくないが、以前は、煙草を売る権利を持っていて、実際に煙草を扱ってそうだ。祖父が、「楽な商売ができたのに」と権利を手放してしまったことを度々後悔していた。何故か?借金の方にでも取られたのか?商人は、失敗したことはあまりしゃべりたがらない。ついぞ、その理由を聞いたことがない。

 「たばこや」は、私が小学校に上がる前から低学年のころは、餅・饅頭を他の店に委託販売をしてもらっていたので、午後からは、配達で出かける親父のオートバイのタンクにまたがっては、あちこちついて行ったものだ。昔のオートバイは、山道ですぐオーバーヒートし、その度にエンジンを冷却するために、暫くは山道の中腹で待たなければならなかった。今から思えば、のんびりした商売である。オートバイに積める量なんて大したことはないのに、ずいぶん遠くの村まで配達に行っていた。夏は、餅・饅頭は売れなくなるから、家族みんなで昼寝した上に、高校野球をみんなで見ていたくらいだ。シャカリキになって仕事をするなどということは、お盆と正月のほんのひと時だけだった。

 それが、「はと錦」になって一変してしまった。

 

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