原のコロナ休業日記 Vol.34 「はと錦」のお菓子4

 「はと錦」がスタートした1973年は第1次オイルショックの年に当たります。都会ではトイレットペーパーが、店頭から消えて大騒ぎとなりましたが、私の記憶では、灯油が手に入りづらくなったということぐらいです。南信州ですから、寒さは中信・北信に比べたら大したことはないのですが、冬は、石油ストーブがなくては過ごせません。

 「はと錦」初めてのクリスマス商戦は、イブの1週間ほど前からスタート。バタークリームのケーキから作り出しました。丸いスポンジを横に半分に切って杏子のジャムを塗り重ねたら、大木は平らなしゃもじの上にスポンジを乗せ、少し温めてゆるくなったバタークリームを、お玉を使って、全体に行き渡るように満遍なくかけます。しばらくするとバタークリームが固まり、スポンジはすっぽりコーティングされたような状態になります。これを、白黄色のバターケーキと、チョコレートをかけたチョコレートの2種類作りました。これだと、かなり日持ちがするのでイブの前から作れるというわけです。

 ところが、生クリームのケーキは、前日しか作れません。800個くらいの注文を受けたと記憶していますが、数は正確ではないにしても大変な数でした。1番数の多い直径7寸のものから初めて8寸、9寸、そして1尺までありました。都会では考えられませんが、田舎は大家族ですから、大きなものも結構売れました。しかも、スポンジを横に切り、まずは下のスポンジを片手の掌に載せ、生クリームで包み込むように手に持っている下の部分だけ除いて塗ります。塗り終わったら台に置き、上の部分に缶詰のピーチを3ミリほどに切って敷き詰め、ピーチの上を生クリームで覆います。上のスポンジも同じように、包み込むように生クリームを塗って、下のスポンジの上に載せます。2段重ねのピーチサンドのケーキが出来上がります。後はデコレーションを施して完成です。簡単に作るには、こんなピーチのサンドはやめて一段で作ればいいのですが、味には大きな差が出ます。味にこだわる兄は、この手間のかかる方法を変えませんでした。

 この日のために集めたアルバイトも、夜中の12時ころには皆帰っていきます。そのあとは、家族と、兄の友人と私になり、家族も翌日の営業に備えて2時ごろには眠りにつくと、最後は、兄と兄の友人と私の3人だけになりました。6寸を仕上げ、最後は5寸です。外が白んできても終わりません。店を開ける時間が迫ってくる中で、3人で格闘。何とか間に合わせ、私は、倒れるように眠りましたが、兄は、そのままずっと仕事です。イブの夜九時に店を閉めて、まさに戦場のような2日間が終わりました。その後、何年かこのパターンが続くことになりました。

 私は、大学を卒業してからは、家の手伝いをすることはほとんどなくなりましたが、「はと錦」は、1989年、平成になって飯田インターチェンジの近くに、新しく店を構えました。それが、現在の「はと錦」の店舗になり、このパターンも昔のものになりました。

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