<写真家・長岡洋幸 特別寄稿>開通直後の青蔵鉄道(西寧~ラサ)乗車レポート

チベッタンブルーの深く澄んだ空を切り裂くように、ひときわ巨大な山・ニェンチェンタンラがその頂を天に向かって突き出している。麓には緑輝く草原が広がり、その中を真っ白な牽引列車を先頭にした列車が走り抜けてゆく。窓越しに乗客の顔が見える。 昨日まで僕もあの列車の乗客だった。ただし天気は大雨だった。一晩たったこの日、空は真っ青に晴れている。目の前には昨日の天気では思いもよらぬ 雄大な景色が広がっていた。この日の列車に乗ることのできた乗客たちが、僕にはとても羨ましかった。 7月21日夕刻、西寧駅の待合室は北京発ラサ行き快速列車T27号と西寧始発ラサ行き快速列車N917号の改札を待つ乗客で溢れていた。西寧からは中国各地に列車が運行されているが、チベットのラサへ向かう列車だけは待合室が別 になっている。僕が乗るのは後発の西寧始発。すでに成都からの列車が、16時49分、ラサへ向けて発って行った。 待合室で列車を待つこと1時間。すでに辺りは暗くなりかけた20時ちょうど。北京からの列車がプラットホームへ滑り込んできた。定刻通り。すでに改札は終わっていて、北京発の列車に乗る乗客たちはホームへ散らばっている。停車時間はわずか5分。しばらくするとホームのあちこちでカメラのストロボが光り始めた。はるばる北京からラサへと向かう乗客たちが、束の間、列車から降りて駅を背景に写真を撮っているのだ。外は雨であいにくの天気だが、カメラを持った乗客たちの嬉々とした表情を見ていると、これから自分もラサ行きの列車に乗るのだという気持ちが否がおうにも膨らんでくる。 同じように改札を待つ乗客に、今日の列車のチケットを何時どのようにして手に入れたのかを尋ねてみた。親子3人でラサへ行くのだという。お父さんが硬座(座席車両)のチケットを見せてくれた。 「今日、駅で買ったんだよ」 その答えに僕だけでなく周囲の乗客も驚きの表情を隠せない。 「たまたま今日になってキャンセルのチケットが出たんだ。助かったよ。バスで行くよりよっぽど楽だからね~」 笑顔で話すその言葉を聞いてホッとする。 青蔵鉄道が7月1日に開通して間もないこの時期、ラサへのチケットは文字どおりプラチナチケットと化していて、通常なら駅の窓口で当日チケットが買えるはずがない。 鉄道として世界最高度の標高5000mを走る青蔵鉄道開通は、中国にとっても国家の一大プロジェクトだった。鉄道建設に伴う困難と犠牲、高山病対策、環境に対する配慮など中国国内はもとより世界中で様々な角度の報道がなされてきた。そういった問題を克服して、いったいどんな客車が投入されるのかも人々の注目を集めていた。 折りしも現在の中国は、好調な経済発展に伴い国内旅行大ブームである。今まで抑えられていた抑圧から一挙に解放されたかのように、中国国内の主な観光地はどこへいっても中国人観光客で溢れている。 その人々の目が青蔵鉄道開通に注がれていた。その結果、青蔵鉄道のチケットは入手困難なプラチナチケットとなり、鉄道局に強いコネを持つ中国人でさえ簡単には手に入らなかった。それが外国人旅行者ともなるとなおさら入手困難で、成都で出会った多くの外国人は誰もがこの列車に乗りたいと話していたが、チケットを買えたという旅行者には誰一人として出会わなかった。何らかのルートでチケットを大量購入し、高値で売りさばくといった犯罪組織さえ横行するほど、青蔵鉄道の人気は過熱していたのだ。何を隠そう、僕が手にしていた硬臥(2等寝台)のチケットも正規料金(西寧~ラサ・497元、日本円で約7900円)の4倍もの料金を払ってやっとダフ屋から購入したものだ。(その後チケットを買い占めていた業者も摘発され、開通 時の混乱も多少は解消されているはずだが、依然としてチケットは手に入りにくい。) そのプラチナチケットを手にしていることが、青蔵鉄道への期待をさらに膨らませた。

硬臥車両(2等寝台)
北京発の列車が出発して、しばらくすると我々の列車が入線した。待合室の乗客がざわめき、待ちわびた改札が始まる。改札を終えた乗客たちは我先にとプラットホームへとかけてゆく。僕も彼らにつられるように走った。 整然とした車内は何もかもが新しかった。進行方向に向かって左の窓が通路、右が寝台。硬臥車両は上、中、下3つの寝台が向かい合って6人のコンパートメントになっている。各寝台には真っ白なシーツの掛け布団がきちんと折りたたんであって、ついうれしくなる。  とりあえず荷物の置き場を確保し、車内を探索。各車両の前と後ろには洗面所があり、通路を挟んでトイレがある。トイレは飛行機と同じ方式で排泄物を処理する真空集便装置。水を流すときはセンサーに触れるだけ。他の車両には車椅子でトイレが利用できる広めのトイレもある。車内には専用のゴミ圧縮機が設置され、環境保護のため車外にゴミが出ないよう配慮されていた。ゴミはトイレの排泄物とともに到着駅等で回収される。



軟臥車両(1等寝台)

バリアフリーのトイレ


食堂車の朝食(一例)

硬座車両(座席車両)

通路の前後には日本の新幹線のように電光掲示があり、車内の注意事項や通過する場所の見所、駅名、走行時の外気温や標高がテロップで流される。 車内を観察しているうちに、いつしか時計は20時07分を指していた。発車時刻だ。 発車後、僕は他の車両の探査に出かける。 まずは軟臥車両(1等寝台)から。十数年前、何度か中国国内で長距離列車に乗ったことがあるが、硬臥から軟臥への移動は禁止されていた。外国人はパスポートを見せて移動したものだが、今では誰もが自由に行き来できる。些細なことに、中国の変化を体感する。当初はこの車両に乗ろうと考えていたのだが、贅沢なことは言っていられない。チケットが手に入っただけでも幸運だ。 各車両には専属の車掌がいて、軟臥の部屋を見せてくれるよう頼むと、空部屋へと笑顔で案内してくれた。この先の駅から乗客が乗るらしい。またしても十数年前に乗った列車の無愛想な車掌と比較してしまう。 軟臥は硬臥と違って通路と寝台の境にドアの仕切りがあるため部屋は完全な個室になる。寝台は硬臥のそれより幅広で軟らかく、上下二段の寝台が向かい合っての4人部屋。各寝台には読書灯と個人用テレビまでがついている。いたれりつくせりでなんとも豪華だ。 次は食堂車。各テーブルにクロスが敷かれていて気持ちいい。食堂車には脇に小さいバーが設置されていてお酒も飲める。 最後は硬座車両(座席車両)。この車両は他の車両より定員が多いため、とにかく賑やか。硬座は普通 、3人掛けの長椅子と2人掛けの長椅子で隣人との仕切りがないが、この車両の椅子は3人掛けでも、とりあえず一つ一つのシートが独立している。リクライニングこそできないが、椅子も軟らかそう。全てのシートが座席指定で、立ち席切符がないため通路に座り込む人もいない。これまでに経験した硬座は、大勢の人が通路に座り込んでトイレに行くのもままならず、さらに通 路に食べかすが捨てられたりして不衛生極まりなかったが、その面影は全くない。それでもラサまでの約26時間、横になれずに移動するのは決して楽ではなさそうだ。 ひととおり列車を見た後は、自分の寝台に戻る。窓の外は真っ暗闇。時刻は21時30分。我々のコンパートメントには、湖北省から来たという役人が3人いたが、早々と寝支度を始めている。手持ち無沙汰だ。食堂車で目にした缶 ビールが頭をよぎったが、通路の電光掲示は、すでに標高3000mを超えている。列車に乗る数日前まで僕は標高4000m前後の東チベットで過ごしていたため、高山病の心配はないはずだが、酒を飲むのは躊躇した。結局、あきらめて寝台に横になった。 翌朝、7時に列車はチベットへの入り口となる町、ゴルムドに到着。この駅でさらにもう一台牽引車両を連結する。ここからが新しく開通した1142kmの始まりだ。車内でタバコが吸えるのもここまで。西寧からゴルムドまでは車両と車両の連結部分でタバコが吸えたのだが、ゴルムド以降は全車両に酸素が供給され、車内は密閉状態となるため全車禁煙。僕はホームに降りて最後のタバコを吸った。 天気は昨日に引き続きどんよりと曇っている。牽引車両の連結を終えた頃、ポツリポツリと雨が落ちてきた。 ゴルムドを出発後、列車はみるみるうちに高度をあげ、あっという間に標高4000mを超えてしまった。それでも車内には酸素が供給されているため、体がつらいということもなく、周囲の乗客もいたって元気そうだ。

朝食は1時間待って食堂車で摂ったが予約をしていなかったためろくなメニューは残されていなかった。 それならばと勇んで昼食の予約をしようとしたのだが、すでに予約で一杯。ツアー客が、早々と食堂車を買い占めてしまったようだ。 朝食から戻ってしばらくすると寝台車両の通路がざわめき始めた。寝台から顔を覗かせてみると通 路が人で埋まっている。歓声が起こるたびに、皆が一斉にカメラを手にする。列車は草原とも砂漠ともつかぬ 平原の中を走っていた。空には重い雲がかかり、あいかわらずの雨模様。平原の先の山々も雲に隠れて裾野しか見えない。その平原に時折、野生の鹿やヤクが姿を現すのだ。そのたびに乗客が歓声をあげていたのだ。 このとき列車は可可西里高原(ココシリ)の東端を駆け抜けていた。電光掲示は標高4700mを示している。 可可西里は、高原というより砂漠に近い。人の気配は全く無い。過酷な自然が人を寄せ付けない。が、その一方で野生動物にとっては地球上に残された数少ない楽園でもある。  今夏、日本でも公開され話題を呼んだ映画『ココシリ』は、チベットカモシカを密猟者から守ろうとする男たちの壮絶な実話だった。最近では密猟者も減り、カモシカも徐々にその数を戻しつつあるが、映画の中でストーリーとともに強烈な印象として残ったのが、荒々しい可可西里の山々だった。その山々が目の前に広がっているはずだったのだが、残念ながら雲に隠れて見えない。今年のチベットの夏は雨が少なく、暑いと聞いていたが、この日だけ大ハズレ。久しぶりのまとまった雨でやむ気配がない。恨めしい心持であきらめきれず、いつまでも外の景色を見ていた。

平原を駈ける野生のロバ
チベット高原に源を発する
アジアの源流域

やがて野生動物を探すのに疲れたのか、乗客たちは寝台にもどって転寝を始めた。荒野の風景が車窓を流れて行く。降っていた雨は、夏だというのにいつしか雪に変わっていた。寝台から鼾が聞こえる頃、野生のロバが彼方へと疾走して行った。正午近くになってさすがに腹が減ってきた。食堂車で食べたかったが、先に述べたように予約で満席状態。とはいえ車内販売の弁当も悪くはない。3種類のおかずとご飯大盛り。米の炊き方が柔らかすぎることを除いて結構いける。見た目は悪いが、中華料理の国の弁当に外れは少ない。ワゴンに乗せて売り子のお姉さんが各車両に売りに来る。品切れの心配はなさそうだが、僕の寝台は最後尾15号車のさらに最後列であったため、同行してくれたガイドの辛君は、品切れを恐れて昼時にわざわざ食堂車まで買いに行ってくれた。

チューブから酸素を
吸う男性

食事に夢中で周囲のことなど気にしなかったが、午後になって乗客に元気がないのに気付く。我々のコンパートメントの3人も、昨夜の大鼾からは考えられないほどぐったりしている。低酸素から来る高度障害だ。 高地を走るこの列車には酸素供給システムが導入されていて、ゴルムドを出てからは各車両の酸素濃度は低地の約80%に保れている。車両の気密性は高い。さらに寝台車では1等(軟臥)、2等(硬臥)とも全ての寝台に酸素供給口があり、乗車時に配られたチューブを使って、いつでも酸素が吸えるようになっている。各便には医者と看護士が一人ずつ乗ってもいる。 高山病対策には万全な列車だが、低地の 80%の酸素量とは、実は標高にしておよそ3000mの酸素量に匹敵する。低地から飛行機でいきなり標高3750mのラサに入るよりはこうして徐々に高度に慣れてゆく方が体は楽だし、高山病対策という意味でチベットへ行く最も楽な方法がこの列車なのだが、それでも体の負担は大きい。実際、この車両の半分以上の乗客が、列車に乗って2日目の午後には、チューブを手にして酸素を吸っていた。 列車に乗っているだけで高山病になるのだから、現場で寝泊りしながら鉄道建設に携わった作業員はさぞや苦労したに違いない。彼らの多くは漢民族の出稼ぎだったが、高山病で苦しんだ人も多かったと聞く。特に標高4500m以上で働く作業員には、夫婦といえど性交渉は堅く禁止された。疲労した体と希薄な酸素はSEXに死の影を落としたのだ。 そんなことを考えながら過ぎ行く風景を見ていた。列車はひたすらラサに向けて走り続けている。変らぬ風景の中をいくつものトンネルを潜り、橋を渡った。

タングラ高原付近の氷河

列車が5,000mを越えた瞬間!

野生のロバを見てから4時間も経ったろうか。やがて左手前方、平原の彼方に二つの山がポッカリ口をあけた間から巨大な氷河が姿を現した。雲で山頂こそ見えないが、どっしりと重みのある氷河だ。するとそれまで順調に走っていた列車がするするとスピードを落とし、ゆるやかな坂を登りきった辺りでゆっくりゆっくり停止した。 時刻は14時16分。通路の電光掲示に目をやると、「海抜高度5079米」の文字が現れている。世界で最も高い場所を走る青蔵鉄道の最高度点、タンラ峠(唐古拉山口)に達したのだ。そこが最高点だと誇示するかのように列車は3分ほど停車した。そしてまたゆっくりと走り出した。鉄道側の発表では青蔵鉄道の最高標高は5072mということで、車内表示の「5079m」に多少疑問は感じたが、とにかく列車が5000mを超えたことに僕は確かな感動を味わっていた。

そして、それ以後、列車は標高を4500m前後に下げ、安多(アムド)から羊八井(ヤンバーチェン)まで緑の草原地帯を走る。この鉄道のハイライトともいえる風景区だ。どこまでも広がる青い湖、草原には遊牧民がテントを張り、数え切れないほどのヤクが草を食む。なんといっても心奪われるのはニェンチェンタンラ(7162m)の雄姿。7千m峰が列車から見える鉄道は世界中でも唯一ここだけ。西寧発の我々の乗った便は、ちょうど夕日がニェンチェンタンラ山脈に沈む 20時過ぎに7千m峰の間近を通過する。そのとき、草原が夕日に染まり、列車の外には最もチベットらしい風景が広がる。想像だけが大きく膨らんだ。ただし天気が…。 湖は雨の合間にかすかな陽を浴びて青く光っていたし、草原の緑は果てしなく続き、雪山は険しかった。雨でもチベットの大自然の片鱗は垣間見えたが、やはりチベットには蒼い空がなくてはならない。朝から降り続く雨は激しさを増し、雲はさらに重くなっていた。列車が山脈を通過する頃には辺りは漆黒の闇に包まれ、期待していたニェンチェンタンラがどこにあるのかさえわからなかった。 山脈があるはずの場所から2時間後、列車は闇の中に煌々と浮かび上がるできたばかりのラサ駅へと滑り込んだ。時刻は22時10分。到着予定時刻より20分も早かった。

これぞチベッタンブルーの空

翌日、列車を撮影するため線路沿いを車で戻った。昨日の雨が嘘のように雲ひとつない快晴。ラサ市街をあとにし、線路はのんびりとした村々へと続いている。太陽の光を一杯に浴びて麦畑が緑に輝き、黄色い菜の花畑があちこちに点在する。畑の奥に並ぶのは白壁のチベットの家並。その先、線路は急峻な渓谷を経て、広大な空間へと延びていた。チベットの大草原だ。空が広い。ヤクや羊がのんびりと草を食み、彼方には真っ白に雪を被った高い峰が連なる。その延長線上にひときわ巨大な山がどっしりと座していた。ニェンチェンタンラだ。頂上までがくっきりと見える。これまで幾度となく訪れた場所だが、何度見てもその姿には心から圧倒される。その真下を線路は走っていた。 午前中にラサから各都市へ戻る3本の列車を見送り、日が傾きかけた頃に2本の列車がラサへと向かった。そして陽が沈む頃、西寧からの最後の列車がラサへと走り去った。その直後、草原の彼方に目をやった僕は思わず息をのんだ。真っ赤な光の中に6000m級の山々のシルエットが黒々と映し出され、空に浮かぶ雲までが真紅に染まっていたのだ。ニェンチェンタンラも赤く光っている。今、列車に乗っている人々もこの光景を見ているに違いない。そして心ゆくまでチベットを堪能していることだろう。天気さえ良ければこの上なく贅沢な列車だ。夕景に見入る乗客を想像しながら、僕はチベットに列車が走ったことをあらためて実感していた。

ニェンチェンタンラ峰の雄姿
壮大なスケールで展開される夕焼け

賑わうラサ駅のプラットホーム

後日、ラサから中国へと戻ってゆく3本の列車の出発を見送ろうと再びラサ駅へと足を運んだ。待合室、プラットホーム、券売所、全てが新しい駅で、大勢の乗客が列車の改札が始まるのを期待の表情で待ちわびていた。間もなく改札が始まると、誰もが笑顔で足早に列車へと向かっていった。 こうしてこれから毎日、3本の列車によって3000人の人々がラサへ運ばれ、ラサから各都市へと戻って行く。その人々によってチベットの変化はさらに加速度を増すだろう。 できたばかりの新しいラサの駅から、新たなチベットの時代が幕を開けた。  

※『風・通信』2006年10月号より転載