第55回●「パシャカ」代用品の歴史

小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

 パシャカ 和名アダトダ

 長い冬休みを終えた3月下旬、メンツィカン(チベット医学暦法大学)の一年は講義に先立ち、パシャカ採集実習でいつも幕を開ける。朝7時に大学をトラックで出発し、みんなで賑やかに歌い続けること2時間、かなり標高を下った川沿いの村に到着した。焼けるような日ざしがインドの最も暑い季節が近づいていることを教えてくれる。汗をかき、埃にまみれながらパシャカの花と葉を一日中採取することで、新入生はチベット医学の厳しい洗礼を受けると同時に、その学年の働き具合が試される一日でもある。丈が1mにもなり白い花をつけるパシャカは高血圧など血に関わる病に最も汎用される薬草であることから、できる限り多くの採取が望まれている。

パシャカ・イ・タクツェ・マルー・セル
パシャカは血の病を全て癒してくれる。  四部医典論説部第20章

 もうひとつのパシャカ

しかし、パシャカと一口にいっても同定(認識)に大きな違いがあり、時に論争を引き起こす。チベット本土では青い花をつける15cmほどの草本(そうほん)を指すことが多く、さらに複雑なことに、チベット東部のカム地方ではキンポウゲ科で丈が50cmほどの黄色い花をパシャカという。また他の生薬においても同様のケースが多々あり、混乱を招いていることから、チベット生薬の統一見解を作成するのは不可能とされるのも納得がいく。
 八世紀に編集された医学教典に記されたパシャカ。白黄青、大中小、果たしてどれが本物かと問われれば、我ら亡命チベット側が優勢となる。なぜならパシャカとはサンスクリット語からの音写であり、インド人が実際にいまもワシャカと呼んでいるのは白い花の木である。つまり皮肉なことに難民としてインドへ亡命してはじめて本物と出会い、本来の処方が完成されはじめたのである。
 チベット医学何千年の歴史といわれるが、実は交通機関が発達した近年になってようやく、教典どおりの処方が完成されるようになったというと意外に思われるであろう。しかし、それは、山に入って実際に体を動かしてみるとわかる。ヒマラヤ山中で1ヶ月に渡って40種類の薬草を採取しても教典中のほとんどの処方は完成できず、インド、チベット本土から600種類もの薬草を買い集めることで、ようやく160種類の処方が完成されるのである。
 そこでチベット各地では代用品の歴史が発達した。インド産のパシャカが手には入らなければ、身の回りにある薬草でどれが代用できるだろうかと知恵を巡らせたことだろう。チベット薬の王様と呼ばれ、現在では最も汎用されるアルラ(第16話参)も、その昔、あまりにも貴重なために、薬を作るときは本物を納めた薬壺を振って「アルラを入れました」という儀式に留め、実際には同じ渋味を備えた代用品を処方していたといわれている。ちなみに江戸時代においても、病人に食べさせる米が無いときは枕元で米を振る「振り米」という風習があったというから、生き抜くための知恵は世界共通なのかもしれない。第37話で紹介したザクロ五味丸もチベット本土においてザクロやシナモン、ナガコショウなど南方系の生薬が豊富に手に入ったとはとても思えない。こうして考えると教典の処方そのものに何千年の歴史が積み重なっているわけでは決してないことが分かってくるであろう。本物がなんであれ生きていくために自分の足で歩き、考え、身近な薬草で代用しようと努力し続けたことがチベット医学の何千年の経験の積み重ねであり真の歴史なのである。身土不二*、身の回りの薬草が一番、体に合っているのだから。

 仕事を終えて川で遊ぶ学生たち

「イヤッホー!」。パシャカ採集を終えると、みんな、そのままパンツ一丁になって川へ飛び込んだ。心臓が止まるかと思うほどに冷たい水が一日の疲れと汗を流してくれる。過去の文献はどうであれ、今日、この白い花をパシャカと信じ、手と足を動かしたことで教典の教えは真実へと昇華した。チベット医学の歴史は今、ここで積み重なっているのだ。



参考:『江戸の医療風俗事典』鈴木昶 東京堂出版

*しんどふじ:食養運動のスローガン。「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い。」という意味で、大正時代に「食養会」が創作した。

小川 康 プロフィール