第135回●ナムタル ~名もなきチベット人の詩~

自伝を手にするシャンバ

シャンバおじさん(第13話)は僕を見つけると「ちょっと、ちょっと待っていてくれ」と一大事とでも言わんばかりに呼び止めた。そして数分後、紺色の本を5冊も抱えて小走りで戻ってきた。「俺の伝記をジグメが書き上げてくれたんだ。日本に持って帰って配ってくれ。まさか、自分の人生が本になるなんて夢にも思わなかったよ」そう興奮気味に語るシャンバの顔のなんと誇らしげなことか。
出版の切っ掛けは10年前の2003年の冬、当時、メンツィカン1年生だったジグメ(第2話)とシャンバが、亡命以前、シャン寺での僧侶時代の思い出話をしていたときのこと。そのときシャンバの脳裏に突然、法王のお言葉がよみがえった。なんでも1958年、ラサ郊外にあるシャン寺を若きダライラマ14世(当時23歳)が訪問されたとき「もうすぐ中国軍がやってくる。いまのうちにお寺にある食料をすべて食べてしまいなさい」と法王が語られたというのだ。「シャンバ、なんでそんな大切な話をいままで黙っていたんだよ」ジグメはそう驚くと、他にも貴重な証言が得られるのではないかと意識的にインタビューを重ねていった。そして10年かけてシャンバの伝記(チベット語でナムタル)を書き上げたのである。もちろん、10年といっても学生時代は暗誦や試験に忙しくて何度も執筆を中断しているのはいたしかたない。

1959年以前のシャン寺

本名フントゥブ・サンゲは、インドに亡命後、シャン寺出身だからゆえにシャンバと呼ばれるようになり、いまでは誰も本名で呼ぶものはいない。そして25年に渡りメンツィカン製薬工場の屋台骨を支えてきた。いくら名医がいたとしても薬がなければ患者を治せない。だからこそ、彼がいなかったら現在のメンツィカンの発展はなかっただろうとさえ言われている。しかし、正式にチベット医学を学んだアムチではないことと、あまりにも欲のない性格のために、その偉大さは古株のメンツィカン職員以外には知られていない。日曜日には必ずダライラマ法王の寺院へ足を運び、高僧の説法に耳を傾けるどこにでもいるおじさんだ。だからこそ歴史の中に埋もれてしまいそうな功労者の伝記を書き上げた親友ジグメに「よくやった」と拍手を送りたい。

製薬を行うシャンバ
メンツィカンで法要を行うシャンバ


それから数日後、チベット老人ホーム「チャンバリン(弥勒館)」を日本人の団体と訪問した。施設の2人部屋にはベッドと祭壇と、わずかな荷物だけが置いてあるだけで極めて質素だ。「おじいさん、何歳ですか」と尋ねると「85歳じゃー」と返事が返ってくる。次に「いつチベットから亡命してきましたか」と尋ねると、ほとんどが1959年と誇らしげに答えてくれた。1959年、それはすなわちダライラマ法王とともにヒマラヤを越えてきた難民第一世代の方々であることを意味している。ほとんどの方が、亡命後、やむなくインド軍に入隊し、1970年代にパキスタン戦線で戦い、結婚の機会を得ないまま30年近い軍隊生活の後に引退した歴史を背負っていた。そんな彼らの歴史に我々、日本人はただただ驚くよりほかはない。そして我々の驚きの大きさよりも、驚いてくれる人がいるという彼らの喜びの大きさほうが勝っているようにも見える。

最後にお話を伺ったおじいさんもやはり1959年に亡命した方だった。「亡命して最初にどこの村に居たのですか?」と尋ねると「チャクランという難民キャンプだよ」と答えてくれた。すぐさま老人ホームのスタッフが「そんな村は聞いたことがありませんよ。もう一度、正確に言ってください」と正すと、おじいさんは勢いこんで話しはじめた。「以前、チャクランというキャンプには何百人のチベット人が暮らしていたんじゃ。でも、あるときインド人の医師が診療にやってきて、薬を間違えたのか、47人の仲間が死んでしまった。それで、みんな怖くなって散り散りに逃げてしまってキャンプは消滅した。そのとき私は真っ先にダラムサラに逃げてきたんだよ」。日本人の僕たち以上に、「ええー、そんな話、いままで聞いたことがないですよ!」と職員が驚いた。この老人はいまのいままで苦難の歴史を誰にも話さずに心の中にしまいこんでいたのだろうか。

自分の過去の物語を語り、未来に残すこと。それは死に近づいた今に充実感を与えてくれるような気がしている。ヒマラヤを越えてきた第一世代の方々に残された時間はそう多くない。名もなきチベット人たちの物語・ナムタルをいまのうちに書きとめておかねば。


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